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頑張ったよね、お姉ちゃん!

森 雅志 1994.10
 久しぶりに富山医科薬科大学付属病院へ行く機会を得た。相変らずの様子が懐かしい。待合室やナースセンター、そして病室も五年前と変わっていない。思えばあの頃、娘と二人で毎日ここへ通ったものだ。
 平成元年七月七日に二女が誕生した。僕は「頌子」と命名した。長女は妹ができたことを大変喜び、我が家は絵に描いたような家族の情景を出現させていた。
 しかしそれも長くは続かず、八月の中旬に妻が病に侵されていることが判明し、以後長い入院生活を余儀無くされたのだ。家族の生活は一変した。妻は勇敢な戦士となって病気と戦い、僕は毎日長女とともに食事や会話をし、保育園へ送迎し、そして日に何度も病院へ通った。ちょうど農繁期だったことから次女は妻の実家へ預け義母の世話になった。
 僕等は力をあわせ、そして励ましあい頑張った。お陰で妻は敢然と病を克服し、やがてまた家族の情景が戻って来たのだった。
 知人を見舞った帰りすがら僕は当時のあれこれを思い出して感慨に耽っていた。
 あの日から五年の月日が流れたのだ。僕の家族はあの時期を経ることによって真に家族としての信頼と連帯を確立することができたと思う。娘たちはそれぞれに成長し、二女はあの時の長女と同じ年齢になった。
 長女はノンビリ屋で些細なことでいじけたり泣いたりするし、二女は負けず嫌いで活発だ。そんな二人はしょっちゅう喧嘩をして僕達を困らせる。そんな時に我が家の大人たちはつい長女を責めてしまいがちだ。「お姉ちゃんのくせに…」などと言ってしまう。
 こんなことは一般によくあることかもしれないけれど、なんとなく我が家の場合は二女を特別扱いし過ぎるきらいがあるようだ。大人たちの頭の中に長いあいだ母親と暮らすことができなかった二女のことを可哀想だったと思う気持があるからかも知れない。
 しかし、あの時期に一番可哀想だったのは長女だったということも僕等は忘れてはならないのだ。病院で母親に甘えながらも涙をこらえていた健気な様子や、夜中にベッドの中で泣いていた姿も思い出されてくる。
 ひょっとしたら長女は大人たちの中に偏愛があると感じているのかも知れないという思いが突然に頭をよぎった。僕は病院の廊下を歩きながら「今日はゆっくりと話を聞いてやろう。」と真剣に考えていた。