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団 欒(だんらん)

森 雅志 2004.05
 ゴールデンウィーク中に旅先で見かけたある家族のエピソードを紹介したい。
四十代と思しき夫婦に中学一年生くらいの姉と小学生の妹という四人家族と中華料理屋で隣り合わせた際のことだ。注文した料理が出てくるまでの間、見るとはなしに彼らのテーブルの方に何度か目をやっていると不思議な感じがしてきた。彼らは一つテーブルで食事をしながらも全く話をしないことに気付いたからである。まさに黙々と食べているのである。女の子二人はそれぞれに自分の携帯電話に何か入力しながら食べているし、父親は娘たちとは違う方を見ながら目の前の料理を次々と口に運ぶ、母親は時々娘の皿に何かを取り分けたりはするものの淡々と食事をしている。少なくとも僕が食事をしている間、一度も会話をしている様子を認めることは無かったのだった。いろんな家族があっても良いし、彼らだってたまたま会話をしたくなかったのかも知れない。それにしてもあんな風に食事をしても楽しくはあるまい。家族でする食事というのは満腹になれば良いというものじゃないだろうに。僕はよその家族に対して勝手に腹をたてていたのだった。
もっとも、たまたま隣り合わせた席が大家族のうえに大声で話すオバチャンがいて閉口してしまうという状況に遭遇することもあるから会話があれば良いという訳でもない。経験から言えば大声のオバチャンの家族はみんなが大声である場合が多く、近くで食事をしているこちらも食べたのか叫んでいたのか分からなくなるということになる。それでも会話のない一家に比べれば、はた迷惑とは言え心の通いあった家族像と言えるではないか。
何故ならそこに家族の一体感や和やかさといったことを見ることができるからである。
もう既に死語に近くなっているのかも知れないが「一家団欒」という言葉がある。考えてみれば日本社会の伝統的な家族観を表現しようとするときにこの言葉ほどイメージを共有できる言葉はないと思う。家族がお互いを思いやりながら和やかに一緒にいる風情、そこに流れる信頼と愛情。そういったことを意識させてくれる良い言葉だと思う。
そして、家族が一緒に食事をするというシチュエーションほど「一家団欒」を現実のものとする機会はあるまい。食卓にただよう湯気のように温かい情景ではないか。
しかし先述の家族の食事風景は「団欒」とはほど遠いものだと思う。湯気があっても会話がないからである。もしもあの家族のように会話のない食卓が増えているとしたら日本の家族像はどうなってしまうのだろうか。今こそ「団欒」という言葉を見つめ直してみることが大切だと思う。
そう思って我が家を省みてみると言葉がない。よその家族を云々する前に、まずは我が家に「一家団欒」が出現するように猛省しなければならないではないか。今日は何があっても真っ直ぐ帰宅しなくては…。