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遙かなるプラハ

森 雅志 2006.06.05
 五月の連休を利用してプラハに行って来た。初めての訪問だったが、そのあまりの美しさに大いに感動した。
あの美しい宮殿や教会さらには街並みが、モルダウ河の氾濫はあったとは言え、大災害や戦禍に遭うこともなく、よくぞ今日まで生きながらえてきたものだ。いくら地震のない国とはいえ驚きを禁じ得ない。ヨーロッパの多くの都市についても言えることだが、変化や革新ということを前提としない文化がそこにあるということか。共産政権も「プラハの春」事件の際の旧ソ連軍戦車もこの文化を蹂躙することはなかったのだ。街そのものが世界遺産になっているのもむべなるかなと思う。
 さて、今回の訪問の主たる目的は、富山ガラス造形研究所で客員教授や助教授をつとめたり、ワークショップに参加したガラス造形作家の皆さんに会うことであり、また規模の大きい窯を有する工房を視察することなどであったが、充分な成果を出せたと思う。それどころかプラハ国立美術工芸大学の学内の案内を受けたり、特別に美術館の非展示の収蔵コレクションを見せてもらうなど充実したものであった。ひとえに平成三年から連綿と続く富山とプラハの人的交流のお陰である。富山のガラス文化の未来のためにもプラハ人脈を大切にしなければならないと思う。
 ところでプラハと成田間の直行便がないこともあって、富山からプラハに行こうとすると長時間を要する。遙かなるプラハへの旅となってしまうのである。当然ながら帰国に際しても長い旅を余儀なくされる。
 それだけでも大変なのに今回の帰りの旅はもう一つのハプニングが待っていた。なんと僕らの乗った最終便が濃霧のために富山空港に着陸できず、羽田に戻ってしまったのだ。仕方なく羽田で一泊し翌日の第1便で帰っては来たが、殆ど疲労困憊状態であった。まあ、濃霧という自然が原因しているのだからやむを得ないものの改めて富山空港の問題点を認識させられた。今後の大きな課題である。
 さて、その際に宿泊代や食事代は出ないのかと不平を口にしている人がいて驚いた。そもそも飛行機は天候によっては遅延することも運休することもあるものだという前提で利用しているはずのものである。もちろん原因がエンジントラブルなどであれば航空会社に責任があるということになり、場合によっては宿泊費や食費の提供がなされるであろう。しかしながら天候に原因があるケースにまでそれを求めようというのは無茶であり、ワガママというものだ。どういう移動手段を選ぶのかということは天候などの要素を含めて自らが判断したことであり、仮に濃霧で羽田に引き返したとしても全ては自己責任の問題なのである。
プラハから変なところに話が飛んでしまったがこんな結末で僕の遙かなるプラハの旅は終わった。予定外のことが起きるからこそ旅なのだと思わされる結末であった。