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安全神話のために…?

森 雅志 2007.01
 過日、参議院議員会館に行ったときに面白いことがあった。僕らを乗せたタクシーは女性のガードマンが立っている入り口で徐行はしたものの停車しないで進入していった。するとそのガードマンが追いかけてきた。そしてやむなく停車した運転手に対して何処へ行くのかと訊ねたのであった。運転手が「参議院議員会館だ。」と答えると彼女は「分かりました。」と言って定位置に戻っていったのである。僕らはあっけにとられてしまった。その敷地の中には参議院議員会館しかないのである。どの議員を訪ねるのかと質問したのならともかく、議員会館に行くとの回答に納得した彼女の対応がおかしくて笑ってしまったのであった。後で聞いたら彼女は民間の警備会社の者ではなくて国家公務員たる衛視であった。さすがに国のやることは違う。こうやって安全が守られているのだなぁ。
 次は富山空港での出来事である。ある朝、僕は手荷物検査場を通過中の北経連前会長と遭遇した。ところが前会長の検査がなかなか終わらないのである。いぶかりながら検査場を見ていると、バッグを丁寧に調べられている様子。また上着だけを何度も金属探知器に通過させている模様まで見て取れた。経済界の大物、いわば富山県の理性の象徴みたいな方になんたる振る舞い。こういう方が刃物を持ち込むはずがないだろう。杓子定規に対応せずに人物を見て判断すべきじゃないのか。などと僕が小理屈を考えていたのに対してかの御大人は穏やかな顔で「丁寧なもんだね。」と笑っていたのであった。
 確かに安全を確保するために検査は必要だろう。そうは言っても対象者によっては例外を設けたり弾力的に運用することはあたりまえのことだと思う。まさか国会議員や知事が検査を受けているとは思えない。県警本部長はどうなのだろうか。一定の範囲で温度差があることは当然である。したがって経済界の重鎮の場合にも運用の妙というものがあっても良いのではと思うのだが。
 そもそも全国の空港で全ての利用客の検査をすることが本当に必要なのだろうか。この検査でどれくらいの危険物が発見されているのだろう。安全神話のために費やされている金と時間と忍耐は膨大なものである。極端に小さな可能性のために全ての搭乗者を検査することの功罪をここらで考えてみたらどうだろう。不満があるなら飛行機を利用するなと言われるとそれまでなのではあるが…。