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悲しき老猫

森 雅志 2009.06.05
 我が家には猫が一匹いる。下の娘が二歳ぐらいの頃に買ってきたので、もう18年間ぐらい飼っていることになる。猫の年齢をどうやって数えるのか知らないけれど、人間にたとえれば相当に高齢だと言えよう。もう立派な老猫である。一日のほとんどを戸外ですごしている。自宅周辺の梨畑を自由に走り回り、暗くなると室内に入るために戻ってくる。たまには行方不明になることもあったが10日もすると何事もなかったかのようにして家にいる。そんな生活ぶりであった。
 この猫は娘たちになついており、餌をねだる以外にはあまり僕に寄ってこなかった。ところが娘たちが家を離れてしまってからは、毎朝僕の部屋に来ては外に出たいと鳴いて知らせる。僕は時々声をかけたり、背中をなでてやったりはするものの娘たちのように抱きしめたりはしない。それでも僕と猫との間には家族としての連帯が少しずつ芽生えていたと思う。ところがここに来て、僕を困らせる事件が頻発しているのである。それは夜の間に僕の衣類や靴下などのうえで排尿してしまうという事件なのだ。以前はこんなことは全くなかった。用意してある猫用のトイレで済ましていた。もともと躾の良い猫で、テーブルに上がるようなことや障子を破るようなこともせず、室内で排尿することもなかったのである。ところがこの数ヶ月の間に排尿事件が何度も発生し困った事態となっている。猫の尿の臭いはなかなか強くて、洗っても簡単には消えない。おかげで大切にしていた登山用のリュックや一度も履いていない靴下などを廃棄させられている。
 娘たちがいなくなって感じる寂しさがそうさせているのだろうか。もっとかまって欲しいとアピールしているのだろうか。ひょっとしたら老化が進み排尿をうまくコントロールできなくなっているのかもしれない。そんな風に考えてはいるものの、新たな事件が発生するとつい叱ってしまう。もちろん一目散に逃げ出すのだが、やがて遠くから悲しげな目で僕を見ている。そうすると可哀想にもなるのだが…。同時に老猫の悲しみを見たようで辛くもなる。愛猫よ!もっと明るく老いていけ!などと言いながら自分をごまかしている。
 ところで「手紙〜親愛なる子供たちへ〜」という歌が少しずつ売れているようだ。介護される老いた親が子供に対して語りかける詩である。食べ物で服を汚しても、同じ話を何度もしても、下着を濡らしてしまっても、それを悲しんだり無力だと思わないでと歌い、「年老いた私が、今までの私と違っていたとしても、どうかそのままの私のことを理解して欲しい」と願う詩なのである。僕はこの歌を知って本当に感動した。介護される者の思いを、尊厳を考えさせられたのである。早速に詩集を買った。そして、どう受け止めてくれるかなと心配しつつもこの詩集を隣に住む両親に渡した。詩の内容に素直に共感してくれたようで嬉しかった。老猫は老いの不安を見せているものの、老親はまだまだ元気でいてくれている。有り難いことだ。