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匿名性社会と実名性

森 雅志 1995.01
謹賀新年
 また新しい年がやってきました。どうか本年が自分自身にとっても、社会にとっても明るく充実した年であるようにと願って止みません。本年もよろしくお願いいたします。

 さて、昨今しきりに酒類の自動販売機の撤去や規制といったことが新聞紙上を賑わせている。社会生活を営むうえでの利便性を重視するのか、青少年に対する配慮や犯罪の予防といったことを重視するのか、という選択を迫られているわけだ。そして対面販売と自販機によるものとのもう一つの違いは、利用者の匿名性ということにあると思う。
 僕は、最近この匿名性がもたらす功罪についてよく考える。都市化が進み、匿名性が高まるということは、それ自体決して否定すべきことではあるまい。周囲の視線や干渉を意識せずに自由に行動し生活することは、本来的なものであろう。地域や集落とは距離をおいた、家族単位の生活シーンも暖かさを感じさせる。
 しかし一方では、匿名性が高くなるにつれて人々がよりわがままになり、より強く不平を口にするという現象が生ずる。匿名のアンケートに対してしばしば過激な回答がなされるのもそのためであろう。集団の中に埋没したときや、車の運転席に座った途端に性格が変わったようになるケースもそのせいだ。そして、他人との関わりから発生するチョットした摩擦も認容できなくなってくる。その結果として、無用なトラブルを惹起したり、平静な生活を混乱させたりすることになるのだ。
 僕らは本来、どんな状況の中でも、自らを律しお互いに協調し合うことで、安定した平和な社会を実現することができるはずである。ところが一方では、匿名性の中に逃避してわがままにふるまってしまうずるさや弱さも、同時に合わせ持っている生き物なのだ。
 もちろん実名で行動しさえすればそれでよいというわけじゃないけれど、少なくとも自らに対する責任ということを意識する度合いが強くなることは否定できない。だからせめて社会に対して正面から向き合い、いつも顔を上げていきたいものだと思う。
 あの稲葉修元法相が引退したときのコメントに、「政治家でいたからこそ自分は人の道に外れることなく生きてこれたのだ」というようなものがあった。それは彼がいつも実名で生きてきたという意味にほかならない。実に味わいのある言葉である……。
 

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