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カンボジアで考えたこと

森 雅志 2000.04
 カンボジアのアンコール遺跡へ行ってきた。

外国人訪問が解禁された頃から一度は行ってみたいと熱望していただけに大きな期待を胸に空港に降り立った。

 長い内戦によって荒廃していると聞かされていたからか、知らず気持がはやった。はたしてジャングルの奥深くその姿を潜めていた古い寺院は、豪壮にして僕を圧倒した。


 遺跡では物売りの子どもたちがまとわりついてきた。いたいけな子どもが赤ん坊を背負いながら民芸品を手に駆け寄ってくる。思わず我が娘たちを思い出し、「お前たちもここに来て同じように働いてみろ」とひとりごちた。

 そのうちに手足の一部が欠損している子どもがいることに気がついた。最初は「可哀想だなぁ」と思っていたのだが、やがてそのあまりの多さに驚いてしまった。そして一団になって物乞いをしている前では思わず足を止め、茫然自失してしまったのだった。全員が地雷による被害者なのだ。悲劇である。戦争の残酷さと言えばそのとおりだが、そんな言葉では伝えきれない、そして僕の経験や知識では受け止めることのできない圧倒的に迫ってくる現実がそこにあった。小銭を差し出してはみたものの問題の解決にはほど遠い。僕はその子らの顔を直視できずに、黙してその場から逃れたのであった。


 僕は娘たちにこの悲惨な情景を見せてやりたいと思った。こんな悲劇があることを教えてやりたいと思った。帰国後、春休みに子どもらとカンボジアへ行こうと準備に入った。

 しかし三月に入った頃から迷いが生じてきた。惨状を見せることで戦争の残酷さを教え、世界に存在する不幸を認識させたいと考えていたわけだが、それはきわめて不遜な考えなのだと思えてきたのである。そして、再訪しようとする目的が地雷禍に苦しむ子どもたちを見に行くということになってはいけないことだと思った。娘たちがこれからの人生の中で遭遇するさまざまな状況の中から、自然な感情の発露として戦争の悲劇に気づき、平和を希求する思いを醸成してくれることこそが大切なのだとは思うけれど、無遠慮に他者の生活の場にまで足を踏み入れてはいけないということだ。


 間違いを犯さなくて本当に良かった。反省の意味を込めてカンボジアの地雷禍救済の団体に少しばかりの支援を始めようと思う。

カンボジアの子どもたちよ、

 負けるな! 頑張れ!

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