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老いの実感

森 雅志 2009.12.05
 実は、八月の登山で痛めた左足がいまだに完治しなくて困っている。完治するには時間がかかると聞いてはいたが、もう3ヵ月を経過したのにいっこうに良くならない。歳をとると回復が遅いということなのだろう。回復が遅いと言えば、転んだ際に擦りむいた傷跡がいまだに消えない。もちろん傷は癒えているのだが傷跡がシミのように残ってしまった。皮膚の新陳代謝が悪くなっているということなのか。つくづくと若い頃との違いを思い知らされている。
 気持ちでは若いつもりでも身体の老化は着実に進行しているのだ。そもそも老眼の進行は激しいものがある。とっくに老眼鏡を手放せない生活に入ってしまった。白髪の進行もひどい。最近は眉の中に白髪が目立つ。身体や顔の張りも失われてきたようだ。先日は旅先の浴場で自慢だった?ヒップラインが大きく崩れていることに気づきショックを受けた。全ては老化のなせるワザである。老いを実感する毎日なのである。
 いや、老化は身体にのみ現われている訳ではない。いわゆるど忘れがひどくなってきた。知っていることなのに思い出せない。備忘のメモをしながら、メモをどこにしまったか分からなくなる。まことにひどい状態である。昔はそんなことはなかったのだが、つい「今日は何日?」とたずねることがある。いやはや何とも…。
しばらく前までは自分のことを「もう若くはない」と表現していたが、「もう歳だ」と言うべき段階に差し掛かっているのかも知れないなあ。しかし、この老いの実感というものは反面において楽しみでもあると思う。なぜなら「練れた」境地に近づくことになるからである。歳を重ねるということは単に馬齢を重ねるということではなく、経験をつむということであり、物をよく知るということであり、思考を深めるということだと思う。自分を磨く営みなのだと思う。その結果として、若い時代の生な面や通俗に流されがちな性向などが落ち着いていき、人間として成長をし、練れた存在になれるのだと思う。
人生の達人とも言うべき多くの年長者に及ぶべくはないが、僕は僕なりに加齢を楽しみつつ自分磨きを続けていきたい。歳を重ねても老け込まずに若さを保っていたいものだ。そのためには身体も気持ちも溌剌としていることが大切だ。知識を広げるために学ぶことが必要だ。なによりも人生に興味を持ち情熱を抱き続ける姿勢が求められる。是非ともそうやって生きていきたいものだ。
 もちろんまだまだ未熟ではあるけれど、生意気盛りの若い頃には見えなかったものが少しは見える歳になったような気がする。少しは成長したということか。傷の治りが遅くても、ど忘れがひどくても、老いの実感を前向きに捉えていこう。歳相応に成長しているのだから。
やがて老練とか老成とか老巧とかといった言葉の意味を実感できる日が来るに違いない。そう言えば、老いらくの恋という言葉もありましたな…?。


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