過去のエッセイ→ Essay Back Number

親子の時代

森 雅志 2012.05.05
 富山大学の入学式は壮観である。なにせ2300人を超える新入生なのだから会場の富山市総合体育館が溢れかえる。これから始まる大学生活に思いを馳せた若者達の輝く瞳がまぶしい。洋々たる前途に拍手を送りたい。
 さて、この入学式の壮観さにはもう一つの理由がある。それは観覧席を埋め尽くす保護者の数の多さなのである。大学の入学式なのだから保護者という言い方に違和感があるものの、ふさわしい表現が見つからないので保護者としておこう。その保護者が、富山駅や駅北駐車場から総合体育館まで列をなしていたことに先ず驚かされた。ほとんどの保護者が夫婦連れであることにも驚いた。平日なのだから休暇を取って参加しているに違いない。子の成長を祝い、喜ぶ風情に納得させられた。家族の記念日なのである。ひょっとすると新入生と両親が揃って家を出てきたのかもしれない。若者は着慣れないスーツに袖を通し、両親はチョットだけおめかしをして笑顔で家を出る。羨ましいほどの家族の情景だ。
 戦後になって個人主義という思想が持ち込まれた。わが国の家族観とは相容れない要素を帯びながら…。その結果、社会の最小単位は個人なのであり、個人が尊重されなければならないとする考え方が蔓延してきた。そこから起因してさまざまな歪みや軋みが生じたと思う。親子間でプライバシーの保護を主張し、個人の権利を口にする、ある意味滑稽な現象が一般化しているのである。しかしそうではあるまいと僕は思う。社会の最小単位は家族であるべきではないのか。両親と子供、あるいは夫婦というユニットがプライベートとしてのまとまりなのであり、他の家族との間において初めてパブリックな関係が生まれてくるものだと考えたいのである。子供部屋に鍵をかけたりするから親子紛争が起きるのではないのか。ずっとそんなふうに思ってきたのだが、入学式に集う親子の情景に触れて改めてそのことを思わされた。親子の時代がやってきたのなら嬉しいことだと思う。いやいやどんな時代であっても子を思い、親を慕うことこそが家族の絆というものだ。仲良き親子でありたいものだ。
 翻ってみて、はたして我が家は如何なものか。娘たちの入学式や卒業式にほとんど出席しないまま今日に至っている。下の娘は1人で卒業式を迎え、貸し衣装を手配し、謝恩会を終え帰ってきた。住んでいたマンションを引き払う作業や手続きも1人でこなした。そして社会人として暮らし始めた。ひょっとしたら寂しさを感じていたのかもしれない。何も言わないけれどもっと寄り添ってほしいと感じているのかも知れない。そう思ったら知らずにまぶたの奥が熱くなってしまった。
 ところで最近は成人式に参列する保護者も多い。以前に出席した式では成人者よりも保護者の人数のほうが多くて驚いた。保護者の皆さんの一番の目的は晴れ着姿の子供たちの写真を撮ることのようであり、記念撮影に時間がかかることには閉口させられた。気持ちは良く分かるものの、保護者同伴の成人式は何となく違和感を禁じえない。はたして社会人としての成長を祝う儀式としては如何なものか。独り立ちを祝福すべきだと思うのだが。家族で成人を祝うやり方はそれなりにあるだろうになぁ。入社式に保護者席が用意されている企業もあるらしい。ますます親子の時代なのだ。富山市も新規採用職員の辞令交付式に保護者席を準備しますかな??

目次