僕が育った地域(地域というより町内という狭い範囲)では農家を中心にして「ガクシャ」という言葉を使う。もちろん「学者」という言葉だが、真の学者を指すのではなくいろいろと物知りの人に対して「なんでも良く知っている、まるで学者のようだ」という意味で使われる。ある種の敬称である。 しかしながら、同じこの「ガクシャ」という言葉を蔑称として使うこともしばしばである。例えば、共同で何かの作業をしようとする際に理屈ばかりを並べて具体的な仕事をしようとしない人や議論好きで口ばかり動かしている人に対して、「あのガクシャは何の役にも立たない」という風に使われる。 特に農作業というものは手を動かさないと始まらないものだ。いろいろなやり方や段取りがあるにしても、早く方針を決定したうえで黙々と働くことが大切なのである。 「ガクシャ」のような姿勢からは何も生まれないことを現場の人間は良く知っているということだ。 最近の世の中はこのガクシャタイプの人が多いと思う。理屈ばかりをこねくり回していて何の成果も出せない連中である。僕はどちらかといえば現実主義者なので理屈や情緒論ばかりで議論している人たちと波長が合わないことが多い。とりわけ行政の現場で大切なのは実務だと思っているので自説の主張ばかりする波長の合わない人に出会うと辟易する。現実的な議論を望みたい。 そもそもそんなガクシャが近くにいてもほとんど何の役にも立たないことが多い。隣家から火が出ても他人事だと決め込むに違いない。独り善がりのガクシャなど無用そのものだが、それでも最近そんな人間が目に付くナァ。社会性の高いガクシャならありがたいのだが。
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