過日、あの養老孟詞先生を我が家にお迎えする機会を得た。お酒を飲みながらの先生との会話はとても面白かった。 さすがに先生のお話はうんちくに富み、かつ奥深いものであり、引き込まれてしまった。おかげでそこにいた全員が良く飲み語った。いやあ、本当に楽しかった。 そのときに先生が披露されたエピソードのひとつに驚いてしまった。なんと最近の教師の一部に、心のままに生きることが大切だと説くあまりに、本当に有り難いと感じた時にだけ「ありがとう」と云えば良いと教える者がいるというのである。 程度の悪い話である。実に憂うべき話である。時々馬鹿な教師に出会うことがあるが、最近はここまでひどくなっているということか。人間が集合して形成する社会というものは個の空間と公の空間で成り立っている。その公の空間の中で個と個が触れ合う時には一定の方式や様式が必要となる。つまり個の主張をコントロールすることや向かい合っている他の個に対して配慮を抱くことが求められるのである。そうやってこそ人間関係が円滑に動くことになるのだろう。その配慮の最たるものが感謝することだと思う。絶えず周囲に対して有り難いと思う心を育てることが大切なのだ。そのためには有り難さの度合いを測ることなどはもってのほかのことであり、仮に感謝する気持ちが涌いてこなくても「ありがとう」と言う姿勢が求められるのだと思う。そういう生き方を重ねてこそ生かされているお蔭様に気づかされるのではないのか。本当に有り難いと感じたときだけありがとうと言えば良いと教えることは、プライベートな空間だけで生きていくことを進めるようなものであり、少なくとも教師が生徒に対して口にする言葉ではあるまい。そのあたりにもいわゆる馬鹿な進歩的文化人臭さというものを感じてしまうのだが。
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