13日の第92回全国高校サッカー選手権において富山第一高校が初優勝したことは本当に感動的であった。11日の準決勝も13日の決勝も国立競技場に足を運び応援したが、2試合ともすごい試合であった。感想や評価をゆっくりと活字にしたいところだが後日にまわしたいと思う。来月号の市の広報誌のエッセイで書いてみたいと思っているからである。今は素直に選手諸君の栄誉を称え、感動を与えてくれたことに感謝したいと思う。
さて、今日はぜんぜん違う話を綴ってみたい。 ここにきて年末に逝ってしまった友人の死を考えることが多い。喪失感に囚われている。妻が亡くなったときはそのことをなるべく考えないようにしながら、いわば気持ちを誤魔化しながら過ごしていたが、今は毎日逝ってしまった友のことを思う。今朝も片付け物をしながら、ふと「ああ、あいつはもういないんだなあ。」と思わされた。妻の死と友の死とではどこかが違うということだろう。不思議なものだなあ。 年が改まってからも知り合いが急死するということがあったからだろうか。何故に周りで人が死んでいくのだろうかと考えさせられる。そういう歳になったということなのだろうか。大親友が逝ったときに、歳月はこうやって大切なものを奪っていくと書いたが、その結果として喪失感だけが残されているのだ。生きていくとは寂しいものだと思う。 そういえば12月30日に若い頃に大好きだったミュージシャンの大滝詠一さんが亡くなった。1月4日には拓殖大学大学院教授の遠藤浩一さんが亡くなった。1月3日の産経新聞の「正論」欄の批評に溜飲を下げたばかりだったのに、その矢先の訃報であった。本当に驚いた。3日付けの[正論」では「現実主義と現実肯定主義を峻別し、後者の罠に嵌らぬよう注意することだ」と提言していた。もっともっとこの人の評論を読みたいと思っていたのになあ。まだ55歳である。 10年ほど前に、保守の論客であった学習院大学教授の坂本多加雄さんが急死したときにも大変に驚いた。52歳での急逝であった。僕はこの人の評論で「ポーツマスの旗」を知り、それ以来大切な一冊だと思っている。こうやって質の高い言論人もまた若くして逝ってしまうのだ。 坂本先生の著作に「スクリーンの中の戦争」というものがある。博識の政治思想家は映画通でもあったのだ。その著作の中に僕の胸が締め付けられるような一文を見つけた。 「人はこの世に生まれ、出会いと別れを経験し死んでゆく。この原型がパターンとして永続されるのが、普遍的な人の歴史である。」すなわち「日常とは、この原型の上に成り立つ世界」だと言うのである。今の僕にはそこまでの達観はできないけれど、出会いと別れの経験を歳相応に積んだということなのかもしれないな。それでもやはり寂しさを消すことはできない…。
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