平成28年3月22日

 一昨昨日のことである。父が僕の部屋に来て「昔、お前が使っていた、自転車みたいなものをこいで運動する機械はどうしたのだ。」と聞いてきた。長い間使ってないけど家にあると伝えると、「廊下にでも出しておいてくれないか。ときどき使ってみたいのだ。」という返事。92歳の父がフィットネス・バイク(エアロ・バイクとも言うのかな?)を使ってみたい???驚いた僕は思わず口にしていた。「そんなことして、大丈夫?」。すると父は、出かけた先の家にあったものを試してみたら快適に運動ができたのだとのたまう。それならということで、一昨日に廊下にセッティングした。本人を呼んで、サドルの高さやハンドルの位置などを調整。本人の希望は一切の負荷を掛けないで、空回り状態のペダルをこぐだけでいいというものであった。確かに空回りのペダルをこぐだけでも膝の上げ下ろしの運動にはなると思い、使用を承諾した。娘の意見は、そのうちに負荷を掛けたいと言い出すに決まっているからやめた方が良い、というものであったが、とりあえずは様子を見るということで納得してくれた。そして昨日である。夕方帰宅してみると、父が喜々として話してくれた。「ありゃ、なかなかいいもんだ。足の上げ下ろしの運動になる。さっきも使ったぞ。いいもんだ、いいもんだ。」と。恐るべし、92歳。僕も負けずにランニングマシーンを再開しますかな。

平成28年3月13日

 書庫の奥深くに眠っていた丸谷才一さんのエッセイ集を再読した。30年ほど前に買ったエッセイ集「挨拶はむずかしい」である。久しぶりに読み返したがエッセイの達人の挨拶は水準が高いなあと思わされた。敵わないなあ。当たり前のことだけど。
 その中に面白い一文があったので紹介したい。

野坂昭如大先生との対談の中での丸谷先生の談話。(長ったらしいスピーチの話)

丸谷 
 ずっと昔のことだけど、うんと偉い先生を偲ぶ会で、中くらゐに偉い人が挨拶しましてね、立ち上がって言ふには、「司会者の方から五分間だけ話をするやうにと言はれたのでありますが、何しろ某先生は八十年の生涯にわたり、多方面で活躍された方でありまして、しかも、わたしは十八の年から親しく教へを受けてをり、二十年の前半にはこれこれ、後半にはこれこれ、三十代の前半にはこれこれ、後半にはこれこれ………」といろいろしゃべって、「そんなふうにお世話になったので思ひ出はまことに盡きないのでありますが」と言って、「それをこのやうな短い時間で語ることなどおよそ不可能でありますが、しかし、そこを敢へて目をつぶって、この席ではただ一つのことだけに話をしぼり、五分間だけ御静聴をわづらはしたいと思ひます」と、前置きしてしゃべる。エンエンとしゃべる。
 その「一つだけ」のことが、二つにも三つにも分かれてるんだけれど、しゃべり終わって、「なほ、一つだけ付け加えますと」とやる。(笑)それが終わると、「あ、一つ忘れてをりました」とくる。それで三十分くらゐしゃべった。つまり、五分が三十分になるといふのを聞いたことがあって、かういふのは困るなあ、とつくづく思ったんです。

野坂
 よくありますね、その手のが。

大先生たちも長ったらしいスピーチに苦しんでいたんだなあ。僕も気をつけなきゃ。

平成28年3月11日

 今日で東日本大震災から5年となる。毎年巡りくる日ではあるが5年はやっぱり一つの節目である。復興作業が進んだ面もまだまだ遅れている面もあるのは当然だ。できることから成果を重ねていくしかあるまい。何よりも被災者の気持ちが大切だ。前に向かって足踏みすることなく進んで行って欲しいと思う。

 さて、今日の読売に毎年のようにこの時期に近況報道がされている「昆 愛海」ちゃんの記事があった。皇后陛下の「手紙」と題された御歌で詠まれたあの彼女のことである。津波によって両親と妹を亡くした4歳の少女が母に宛てて手紙を書きながら寝入ってしまっている写真をご覧になり皇后陛下が読まれた御歌が次のとおりである。

  「生きているといいねママ元気ですか」文(ふみ)に項傾し(うなかぶし)幼な児眠る
 
 皇后陛下の御心が沁みる。そして今日の紙面には9歳になった彼女の元気な姿が躍っている。祖父母にママの遺体が見つかった海岸に連れて行ってもらい手を合わせて献花したと記されている。その日の日記には「海に花を投げました。」と書いたそうだ。ママに会いに行ってきた愛海ちゃん。お祖父ちゃん、お祖母ちゃんに大事にされながら元気に明るく生きて行くんだよ。もちろん震災で孤児になったのは彼女だけではない。その多くが親族に育てられているのだろう。その子達の全てが元気でいられることを心から願う。頑張れ。

平成28年3月9日

 3月に入り随分と春めいてきたと思っていたのに厳寒の真冬に引き戻されてしまった。早朝、大切な先輩が急死されたと連絡があった。深夜に電話をもらいながら気付かずに眠りこけていたことを猛省する。あの高平さんがなくなるとはなあ。先ほどお弔いに行ってきたが、奥様やご子息に掛ける言葉が見つからなかった。故人と僕とは平成7年初当選の県議会同期組、平七会の仲間である。この20年間、本当にお世話になった。亡き妻も含め家族ぐるみでお付き合いいただいた。いつも力強く励ましてもらった。みんなを明るく牽引される真のリーダーであった。いつも明るく輝いている存在であった。そんな太陽のような人が消えてしまったのだ。寂しさに包まれる。歳月はどうして大切な人を奪っていくのだろう。毎年のように誰かがいなくなる。友がいなくなる。こうやって寂しさを耐えていくことが生きるということなのか。悲しみはもう少ししてから襲ってくることは経験済みだ。今はただ、あの笑顔に会えないことが寂しくてたまらない。高平さん、本当にお世話になりました。ご冥福を祈ります。合掌。
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