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喪主の挨拶

森 雅志 1995.04
 最近、いろいろと事情があってよそ様の葬儀に参列することが多い。そのうえ不思議に重なるときは重なるもので午前中に二つの葬儀に出たことさえもある。そんなこともあって段々と葬儀慣れをしてきたみたいだ。
 宗派によってその運営や式次第が異なるのは当然としても、ほぼ共通して見られるのが葬儀の最後にある喪主の挨拶である。
 多くの場合、型通りの挨拶が多いのだけれども、ときどき感動させられたり、驚かされたりする挨拶もある。先日もそんなケースに遭遇した。
 近所に住むTさんの母親の葬儀であった。Tさんは実直一途でおとなしく、いつも黙って農作業に従事しているような人である。葬儀も滞りなく進み、いよいよ喪主の挨拶の段となった。彼は静かにマイクを握りおもむろに話し始めた。型通りの挨拶が済み、誰もが腰を上げようとした時であった。彼は不意に身体を祭壇の方に向け「ばあちゃん!ありがとう!」と小さな声で言った。
 僕はビックリすると同時に大きな感動を禁じ得なかった。そして涙がこみあげて来てならなかった。日頃から目立たないあのTさんが突然に、しかも感動的に言ったのだ。
 どんな美辞麗句を並べるよりも僕は胸を打たれた。彼の言葉は自然に発せられたものであり、そしてその背景にT家の日常の情景をハッキリとうかがうことが出来たのだ。親子の情愛や家族に対する想いというものが強く伝わってくるではないか。
 Tさんとばあちゃんとの間の相互の信頼やら感謝の気持というものがヒシヒシと感じられる。二人が如何に強く気持を通わせていたのかをうかがい知ることが出来た。
 はたして僕は自分と自分の両親との関係においてどこまでしっかりとした心の通い合いというものを持っているのだろうか。将来僕の両親が逝く日が必ず到来する。そして僕が葬儀を取り仕切ると思うけれども、その時僕はいったいどんな風な思いを抱くのだろう。Tさんの様に「ばあちゃん、ありがとう」と言えるのだろうか。ともかくもいつも素直に感謝を表明する姿勢を持っていたいと思う。少なくとも、参列者に対する配慮に意識を取られるあまり、その時に本来意識すべきである親子の歴史や情愛というものに心が及ばないということのないようにしたいものだ。
 おわりに、我がじいちゃんとばあちゃんに対し“ありがとう”と言っておこう。