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君よ走れ!ただ黙々と。

森 雅志 1997.07
 先日僕は初めて駅伝大会でのスターターをつとめた。チームの全員が同じゼッケンを付け大人から子供へ男性から女性へとタスキが継がれていくのである。世代を超えてタスキを継ぎあうレースは、沿道に集う地域の人々の心温まる声援とあいまって、実に清々しい光景であった。タスキと一緒に「頑張れよ」という心が伝わり、「ご苦労さん」という気持ちが返される。駅伝という競技には感謝と信頼とがしっかりと存在しているのであった。そんな感動あふれる大会に関われたことを本当に嬉しく思っている。

 さて今回の大会には、地元にある精神障害者更生施設「めひの野園」の若者逹が特別にオープン参加していたのであった。彼らは日頃から施設のスタッフによる指導のもと近くの丘陵地帯を走っていたのであり、今回初めてこの大会に参加したのである。

 レースの途中、観察車に乗りこの施設のチームの選手に伴走していたときにチョッとしたハプニングがあった。その選手は少し重そうな身体ではあったが変わらぬペースでしっかりと前を見つめながら黙々と走り続けていた。やがて大きな交差点を横断するポイントに差しかかった。警察官や大会関係者が道路上で旗を振り、そのまま直進するように指示をだしていたのだが、その選手は交差点に差しかかるや左に折れ、横断歩道までわざわざ遠まわりをしたうえで左右を確認しながら道路を渡ったのであった。僕らは大声でまっすぐ進むように叫んだし、その声は彼の耳に届いたに違いないのだが、彼は躊躇することなく横断歩道を渡っていったのであった。僕はそのとき愚直なまでに日頃の指導を順守した彼の姿に驚きかつ感動した。

 やがて彼は中継点にたどりつきタスキを次ぎの走者にしっかりと手渡した。その場にいた関係者が大きな拍手で彼を讃えるとその時初めて彼は笑顔を見せた。彼の表情からは確かな満足感と責任を果たしたという思いが見て取れた。そしてその場にいた全ての者に大きな感動を与えてくれたのであった。

 愚直なまでに黙々と走っていた彼の姿は何か大切なものがそこに潜んでいるという思いを僕に抱かせた。日々の流れの中で喪失してしまった何かをもう一度取り戻せと僕に語りかけてくれたのであった。

 そんな僕の心の揺れをよそに彼はこれからも走り続けるのであろう。毎日ただ黙々と、前を見つめて。ただ黙々と。