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君が緑の黒髪よ

森 雅志 1998.10
 ここのところ急に白髪が増えてきた。そんな歳ではあるけれど、遺伝的にも僕は白髪派と言ってよい。叔父たちの多くが輝くばかりの総白髪の持ち主なのだ。彼らのようになれるのなら白髪も悪くはないなとも思う。

 もっともある日目覚めたらロマンスグレーになっていたということはあるはずもなく、今のところはまだまだ中途半端なのである。染めたらどうだと勧める人もいれば、染め続けるのは大変だから放っておけという人もいる。そんななかで最近は玉置浩二の白髪まじりのヘアーが気に入っている。自然体で生きているなという感じが滲み出ていていいと思う。自分の身体の一部じゃないか、あるがままにしておこうよと語っているようだ。僕も白髪など気にせずに自然体で生きていこうと思う。ついでに日々確実に肥大化している腹部もあるがままにしておこうか?

 一方、街中では白髪でもないのに髪を染めることが大ブームである。カラフルに染めている若者も多い。小学校の入学式に子供を茶髪で登校させた親さえいるそうである。たしかに親の勝手なのかもしれない。そんな親は子供に刺青を入れることも自由だと主張するに違いない。迷惑をかけなければ何をしようと勝手だと思っているのだろう。

 社会とはそこに生きる人々の相互理解と一定の許容の下で構築されているものである。したがって一定の許容の枠を越えるような生き方は非社会的なものである。そんな非社会的な連中とは距離をおいていたいものだ。できることなら接触したくないとも思う。

 ところが否が応でも出くわすこともある。過日、エレベーター内でなんと緑色に髪を染めた女性と乗り合わせた。彼女は下着のような衣装を着用しており、乳房の半分を露出させていたのである。昼間からそんな格好をしている者は自ら娼婦だと名乗っているようなものだ。隣にいた外国人が顔をしかめていたことは言うまでもない。

 ひょっとすると彼女は「緑の黒髪」という言葉の意味を勘違いしているのかもしれない。自然体で生きるということと胸をあらわにするということをはき違えているのかもしれない。いずれにしても僕は彼女の過激なファッションに不快感を覚えた。白髪まじりのオジサンとしては、これからも非社会的なものには妥協しないように生きていこうと思う。そのためにも「緑の黒髪」に対する憧れを忘れることなく、過激スタイルの娘たちに軽蔑光線を照射し続けて行こうと思う。