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正しいと思うままに生きること
森 雅志 1999.04
僕は入学式とか卒業式とかにおけるなんとなく張り詰めた空気や、緊張した生徒たちの表情に触れることが好きだ。
そんな僕だから、今年の中学校の入学式にあっても次々に入場してくる新入生たちの様子を清々しく感じながら見つめていた。どの生徒も真新しい制服に身をつつみ、自信と希望をあふれさせた表情で、胸を大きく膨らませながら歩いているのであった。
やがて僕は一人の男子生徒の足元に注目させられた。僕がみとめたものは彼が履いている黒ずんだ運動靴であった。ほかの生徒たちの真っ白なズックと違い、だれの目にも分かるほどに使い込まれたものであった。僕はその時、思わずハッとした。何故なら、多くの新入生の中で彼だけが「オサガリ」のズックを履いていることに気づいたからである。
学校で使用すべきズックは定められている。だから彼以外の生徒は指定されたものを購入し、入学式の日に初めて使用したに相違ないのである。しかし彼だけは、おそらく兄弟が以前に学校で使用していたものを履いて式に臨んだのだと僕は覚った。そして使い込んだものをキチンと保存して下の子に使用させた彼の家族の姿勢に驚いた。同時に、素直にそれを着用した彼もまた素晴しいと感じたのであった。
中学に入るのだからと、娘に対して何でも買ってやった僕は自分自身が恥ずかしくあった。わが身に比して彼の家族の対処はどうだ。僕は感動を覚えた。晴れの日だからと言っては買い与えてしまう昨今にあってこの姿勢は実に立派だと僕は思った。
物を大切にすべきだということは分かっている。流行や風潮に流されないで生きることの意味も知っている。でも、そのことを真に実践することを忘れてしまっているのが今の時代ではないだろうか。どうすべきかを知りながらも、いたずらに不平を漏らし要求ばかりをする世相にさえなっていると感じる。換言すれば「知と行が乖離してしまった時代」なのである。今こそ彼と家族の姿勢に学ぼうではないか。今からでも遅くはない「知行合一」という言葉を受け止めるのだ。そういう姿勢が大切だとして生きてていこう。本音とタテマエを使いわけることなく価値と行動を一貫させていく生き方を目指していこう。
せめてこれからの時代を担う中学生の諸君に僕は言いたい。「自らが正しいと思う、そのままに行動していって欲しい」と。
そんな僕だから、今年の中学校の入学式にあっても次々に入場してくる新入生たちの様子を清々しく感じながら見つめていた。どの生徒も真新しい制服に身をつつみ、自信と希望をあふれさせた表情で、胸を大きく膨らませながら歩いているのであった。
やがて僕は一人の男子生徒の足元に注目させられた。僕がみとめたものは彼が履いている黒ずんだ運動靴であった。ほかの生徒たちの真っ白なズックと違い、だれの目にも分かるほどに使い込まれたものであった。僕はその時、思わずハッとした。何故なら、多くの新入生の中で彼だけが「オサガリ」のズックを履いていることに気づいたからである。
学校で使用すべきズックは定められている。だから彼以外の生徒は指定されたものを購入し、入学式の日に初めて使用したに相違ないのである。しかし彼だけは、おそらく兄弟が以前に学校で使用していたものを履いて式に臨んだのだと僕は覚った。そして使い込んだものをキチンと保存して下の子に使用させた彼の家族の姿勢に驚いた。同時に、素直にそれを着用した彼もまた素晴しいと感じたのであった。
中学に入るのだからと、娘に対して何でも買ってやった僕は自分自身が恥ずかしくあった。わが身に比して彼の家族の対処はどうだ。僕は感動を覚えた。晴れの日だからと言っては買い与えてしまう昨今にあってこの姿勢は実に立派だと僕は思った。
物を大切にすべきだということは分かっている。流行や風潮に流されないで生きることの意味も知っている。でも、そのことを真に実践することを忘れてしまっているのが今の時代ではないだろうか。どうすべきかを知りながらも、いたずらに不平を漏らし要求ばかりをする世相にさえなっていると感じる。換言すれば「知と行が乖離してしまった時代」なのである。今こそ彼と家族の姿勢に学ぼうではないか。今からでも遅くはない「知行合一」という言葉を受け止めるのだ。そういう姿勢が大切だとして生きてていこう。本音とタテマエを使いわけることなく価値と行動を一貫させていく生き方を目指していこう。
せめてこれからの時代を担う中学生の諸君に僕は言いたい。「自らが正しいと思う、そのままに行動していって欲しい」と。