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爾霊山の上の雲

森 雅志 1999.10
 議員仲間で大連に行った。僕にとっては初めての訪問である。

高層ビルが立ち並ぶ中を路面電車や二階建てバスが走り、香港を思わせる。かってのロシアや日本の統治時代の面影も街のあちこちに見られ、アカシアの街は評判どおりに美しい。

 もっとも人工的な美しさだとも感じた。表の顔と裏の顔とに距離があるのではなかろうか。早朝、あちこちを歩いてみてそう思った。見かけた人たちがみんな退屈そうであった。都市はもっと猥雑なものだと思う。

お決まりの観光コースとして二百三高地へ行った。大連市内から車で一時間ぐらいの旅程である。

僕らは車中で色々なことについて話した。日露戦争のことや二百三高地の戦闘のこと。乃木将軍の人生について。多くの兵を死なせ自らの子供も死なせた彼の無念について。敗軍の将たるステッセル将軍に帯刀を許して記念撮影をしたことなど、浅薄な知識を手がかりに語り合った。

はたして二百三高地は、お土産を売る店もある典型的な観光スポットであった。僕らは慰霊碑を背に型通りの記念撮影をした。


ところが突然、同行者の一人である議員が、朗々と吟詠を始めたのである。僕は驚いた。そして知らずに居ずまいを正したのであった。そこにいた人々は全員押し黙り、意味が分からないであろう中国の人も含めて頭を垂れたのであった。

爾霊山険豈難攀

男子功名期克艱

鉄血覆山山形改

万人斉仰爾霊山

まさに絶唱であった。僕は感動し、しばらくの間佇立したままであった。

僕らが無責任に中途半端な知識を語り合ったりしている間も、彼は死者に対する慰霊の姿勢で黙していたのだ。我が身を恥じた。

確実に慰霊碑のまえに流れた吟詩は遠く日露の霊に届いたのだろうか。不器用に生き、崇高に生を終えた乃木希典に届いたのだろうか。

その時、爾霊山(二百三高地)は暑く、坂の上には白い雲が早く流れていた。

帰国してからこの日のことを思い出して本屋へ走った。司馬遼太郎の「殉死」をもう一度読んでみたくなったのである。