過去のエッセイ→ Essay Back Number

少年の日の僕と四八才の僕

森 雅志 2001.01
 新年を迎え、いつもの年初以上に心を新たにしようとする気持ちが強い。新世紀を迎えたという思いがそうさせているのだろう。

いよいよ二十一世紀である。

 僕が二十一世紀ということを初めて意識したのは小学校の四年生の頃だ。当時は手塚治虫の漫画を読みながら、高度な科学文明社会や輝くSFの世界に憧れていた。そんな社会に生きてみたいとの思いから新世紀の到来までを計算し、「そうか、その時には四八才になっているんだな。」と思って何故かは知らずわくわくし、頑張ろうと思った日のことを良く記憶している。

 今日、手塚治虫の世界ほどではないにしても科学技術は飛躍的に進歩をした。人類は月に到達し、バイオテクノロジー、臓器移植やクローン技術は進み、ロボットの実用化もIT革命も現実のものとなった。子供の頃に夢想した科学文明社会に近づきつつある。同時に僕は確かに四八才になった。そして元気に二十一世紀を迎えたのである。

 あの少年の日からの僕の人生を思い起こしてみれば、実にいろいろなことがあった。蹉跌や挫折もあれば幸運なこともまた沢山あった。二十世紀という時代が一秒一秒を刻みながら二十一世紀を迎えたように、僕もまた様々に経験しながら、そういったことの一つ一つを血肉として今日を迎えたのだ。感慨深いものがある。

 昔風にいえば、僕は数え年で五十才になったことになる。もう立派な中年オジサンであり、それなりの分別も求められ社会的責任もある。なによりも人生の三分の二を既に生きてきたことになる。新年にあたり、この際ゆっくりと来し方を振り返り検証してみたいと思う。そしてこれからの生き方を落ち着いて考えてみる、そんな年にしたいと思う。

 それはそうと、今の僕はあの少年の日の僕が夢想した四八才の僕とどれくらい離れているのだろうか。当時の僕がどんな未来を夢見ていたのかは忘れてしまったが、少なくとも少年らしい純真な心で将来を見つめていたに違いない。今の僕とは大違いだ。もちろん純真な心のまま大人になるということはできないのだが、純真さを残して生きていくことはできるはずだ。もう一度、心のどこかに純真なものを回復したいものだ。世紀の変わり目にあたってそんなことを考えている。