過去のエッセイ→ Essay Back Number

娘の背中

森 雅志 2001.04
 高校二年生の娘をカリフォルニアの田舎町に出した。かつて僕が英会話を習っていた女性の家にお世話になったのである。
 娘はほとんど英語を話せない上に、日頃の不勉強のせいで語彙力もはなはだ貧弱だ。引っ込み思案のところもあり心配ではあったが一人になって色んなことを考える機会を作ることも大切だろうと思い、送り出した。
 個人で進めた計画だから道案内役がいる訳もなく、仕方なく娘と二人で彼の地まで飛んだ。久し振りに娘と二人でいろいろと話が出来たことは良かったのだが、アッという間に僕だけが帰国する瞬間がやってきた。
空港まで向こうの家族が見送ってくれた。食事をしながら改めて娘のことをお願いし、娘に対しては、寂しくても頑張るように話した。娘は視線を合わさずに、小さく頷いていた。別れづらくなるまえに早めに出国したほうが良かろうと、みんなと握手をしてさっさと別れを告げた。
振り向くまいと思っていたがゲートに入る直前にふと後ろを見てみると、向こうの家族から二・三歩遅れて歩いている娘の姿があった。さすがに背中が寂しそうであった。僕は小さく「頑張れョ!」と声に出していた。
機中で文庫本などを読んでいてふと娘のことが頭をよぎったが、彼女にとってはこれも自立への一つのステップなのだと自分に言い聞かせた。一つの巣立ちなのだと。例えば大学に入って一人暮らしを始める時のようなものだと考えていた。
そこまで考えたら、急に自分が大学に入学したときのことが思い出された。あのときは父親が一緒に上京してくれて、下宿の準備や生活用品の買物などを手伝ってくれたのだ。
(その時に買ったコーヒーカップは今も現役で、僕の所有物の中で一番の長命である。)
 一日だけ一緒にいて父は帰っていったと記憶しているが、その際の父の心中は娘に対する僕の気持ちと同じようなものだったのかもしれないと思った。僕自身はそれから始まる東京での生活を思って胸を膨らませていたのだろうが、去っていく父の方は過日の僕と同じようにそっと振り返ってくれていたのかもしれない。そして車中でふと案じてくれていたのだろう。ありがたいことだ。
娘がその背中であの日の父の姿を思い出させてくれたのだ。子どもは親の背中を見て育つと言うけれど、僕は娘の背中を見て娘に対する期待と一緒に親の情愛をも思ったのだ。
 これも一つの家族の情景というものか。