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いのちの旅

森 雅志 2001.07
 大阪教育大学付属池田小学校における児童殺傷事件はとんでもない大凶行であり、オウムによる地下鉄サリン事件以来の日本で最悪の集団殺人事件であった。学校における大量殺傷事件は、アメリカではともかく、日本では決して起きないものと僕は信じていた。そんな安全神話は一瞬にして打ち砕かれてしまったのだ。凶行を犯した犯人を極刑で裁いてやりたい思いでいっぱいである。
 何よりも犠牲になった子供たちや家族の心情を思うとやり切れなくなる。「七年しか生きていないんですよ」と泣きながら訴えていた父親の言葉には涙を禁じえない。自らの「死」ということを意識することさえなかったであろういたいけな「命」を思うといっそう悲しみが深くなる。とても言葉がみつからない‥。(合掌。)
 さて、子供の死ということで言えば、柳田邦男が「犠牲」(わが息子・脳死の十一日)という作品の中で見せた子供の死に臨んでの親の姿勢を思い出す。また、「フランダースの犬」のストーリーを引きながらの子供の死についての彼の講演に感動した記憶もある。
そもそも「フランダースの犬」という童話自体が実に感動的な作品である。少年ネロは不幸の連続の果てに死を迎えるのだが、ネロは愛犬パトラッシュと一緒に、しかも切望していたルーベンスの絵を見ながら命を終えたのだからある意味では暖かい死だったのかもしれない。そしてネロとパトラッシュの新しい「いのちの旅」がそこから始まっていく。それでも子供の死は悲しい。池田小学校の子供たちの「新しい旅」にもせめてパトラッシュがいてくれたら良かったのにと思う。
まったく偶然なのだが、あの凶行事件後の一週間に「命と死」をテーマにした絵本を二冊読んだ。一冊は有名な「葉っぱのフレディ」であり、二冊目は「いつでも会える」(菊田まりこ作)である。どちらも五分もあれば読める簡単な絵本だが、あの事件が頭から離れない時期であっただけに心に染みた。妻は読んで目を潤ませていたが、娘の読後感はそうでもなかった。(照れがあるのかもしれない。)
 それにしても何故あんな凄惨な事件が起きたのか。もちろん狂気の沙汰であることは論を待たないのだが、イライラや怒りが充満した世相が影響しているとしたら僕らを含めた現代社会全体の問題である。答えを真剣に見つけようとする事こそが死んでいった子供たちに対する大人の責任だと思う。