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危ない「ジェンダーフリー」

森 雅志 2002.10
 最近、男女共同参画社会を推進しようとする運動の中でしばしば「ジェンダーフリー」という言葉が使われる。
 ジェンダーとは生まれながらに備えている性差(sex)ではなく、社会的・文化的に形成された性差を言う。「女らしさ/男らしさ」というイメージは、生活習慣や制度などの社会過程によって作り上げられてきたものであり、このような固定観念にとらわれることなく、誰もが自分らしく生きることの出来る社会を実現することが大切だとする考え方が「ジェンダーフリー」という思想である。ジェンダーの呪縛から解き放たれなければならないという意見である。誰もが自分らしく生きることが大切なのは当然であり、異論を挟む余地など無いように見える。しかしながら声高に「ジェンダーフリー」を叫ぶ連中にかかるときわめて特異な思想へと・・進化(?)していくこととなるのだ。
 連中によれば自分らしさだけが意味を持ち、男らしさや女らしさを否定することになる。その結果、「男女平等」とは男女の性差を前提とした上でお互いを尊重しあうものであるはずなのに、男女の性差を否定し、男女を同質にしようとするきわめて奇矯な発想になっていくのである。そして、教育や行政の現場に対しても男女の区別や不均衡を排除するように求めてくるのである。したがって、例えば男の子だけを「君」付けで呼んではいけないし、女性だけを描写したポスターもいけないということになり、「女流弁護士」や「処女作」といった表記も不適切、「雄々しい」や「女々しい」という言葉は問題外、「たおやめ」や「ますらお」に至っては聞いたこともないということになる。連中の前で「大和撫子」なとど口にしようものなら命はないものと覚悟しなければなるまい。
 チョット待ってくれと言いたい。「男らしさ/女らしさ」を認めた上で社会のありようを考えるのは当然のことだし、母性や父性を教えてこそ自己を考えることができるのだ。何でもありの時代だからこそ過激思想に惑わされずに考える姿勢が大切だと思う。
 おそらく連中は性差を否定し、結婚を否定し、家族制度をも否定するというきわめて危険な思想を潜ませているのだろう。そこまで過激ならいっそのこと雌雄同体のカタツムリにでもなったらどうだ、と言いたい。この際、正しい「日本男児」は過激思想と闘うために堂々と決起しなければならないのだ。