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五十而知天命?

森 雅志 2003.01
 謹賀新年。

 2003年の始まりだ。新世紀を如何に生きるかなどと言っているうちに、あっという間に2003年に突入した。最近、つくづくと時は待ってくれないなぁと感じる。それだけに無為に流されることなく、自己実現のための毎日にしなくてはならないと思う。
 思えばこの1年間は数え切れないほどの皆さんに支えられた年であった。そして走りつづけた毎日であった。おそらく僕の人生の中で最も忙しい日々であったであろう。それほど評価されるものでもなかっただろうがナントカ乗り切ることができた。ひとえに多くの皆さんのお陰であり、感謝に耐えない。
 同時にやりがいのある充実した日々でもあった。緊張の連続でもあった。僕の体内は毎日大量に分泌されるアドレナリンで充満していたに違いない。わが身の健康にも感謝しよう。
 しかし忙しく身体を酷使するから良い結果を出せるというものではない。走りながらも物事の本質を見つめて深く思考することが大切なのだ。時には瞑想することも必要だと思う。実はずっと走りつづけながら漠然とした不安を感じていた。じっくりと考える時間が無いことから来る不安であったと思う。今年はスピード感を大切にしながらも思索する年にしたいと思う。確実に記憶の糸を手繰る能力が減退しているのだから、せめて新しい知識に対して貪欲になろうとも思う。世事のあれこれに右顧左眄せず落ち着いて物事の判断をしよう。新年を迎え、そう決意しているのである。
 僕は正真正銘の五十才である。はたして五十にして何を知るのか。人間が遭遇する禍福の本質を悟り、わが身の使命を自覚できるのか。(?)。思えば十年前に「四十代が人生の輝きの時だ」と負け惜しみに近い雑文を書いた記憶がある。確かに波乱万丈の十年間ではあったが、「不惑」という境地たり得たのか?。そしてそのまま「知命」の歳となってしまったのである。今の五十は昔の三十だとされることがある。どうせ心許無い五十なのだから思い切って「五十而立」と宣言したらやり過ぎか?(今年も宜しく。)