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抱きしめる、という会話(広告コピーから)

森 雅志 2004.03
 児童虐待の事件が頻発している。それも凄惨なものが多い。そのうえ報道が引き金を引くのか、連鎖的に発生している。世の中がどうなってしまったのかと思わざるを得ない。一人一人の身体に熱い血が流れていることを忘れてしまっているのだ。人間の命が軽んじられているということだ。
 あまりの酷さに報道から目をそらすこともしばしばである。ニュースに触れても気付かない風を装っていることさえある。
 しかし、それではいけないのだ。児童虐待の問題について、今の時代を生きる一人の人間として真剣に向きあわなくてはならないのだと思う。流れていく時間の中であえて立ち止まり、命の重さについて自問しなければならないのではないのか。
 とりわけ子供たちの命の重さについて、彼らの溢れる可能性や輝く未来についてしっかりと考えてみる必要がある。いったい誰がこの無垢なる存在を汚すことができるというのだ。こういう時代だからこそ子供という宝物を大切に見守っていかなくてはならないのではないのか、と思う。
そこまでは分かっているのだが、毎日のように事件が発生する現状に対して具体的にどう行動すればよいのだろうか。答えが見つからないもどかしさに潰されそうにさえなる。自分自身の無力さを思い知らされる…。
 同時に、我が子と自分の関係に目を転じてみると、はたして虐待の問題について決して傍観者たり得ないことに気がつく。例えば気付かないうちに子供の心に暴力をふるっていることは無かったのか。痛みを訴える子供のメッセージを無視してしまったことは無かったのか。もう一度自分の生き方や子供との接し方を素直に反省してみなければならないと思う。
 さて、最近新聞によく掲載される公共広告機構の広告に「抱きしめる、という会話」というコピーがある。母親と思しき女性が女の子をはっしと抱きしめている写真の広告である。見た人は多いと思うが、この広告の発信している情景こそが子供との接し方のポイントなのではなかろうか。抱きしめることで子供の思いを受け止めてやること、お互いの体温で会話をすることが大切なのだ。そして、それこそがもう一度僕たちが命の重さを実感する最良の方法なのではなかろうか。
 アメリカ人は親子の間でしばしばアイラブユーと言ってキスをする。そしてハッグする(軽く抱き合うこと)。このハッグという習慣は僕らにはないけれど、せめて背中をタッチすることぐらいは必要なのだろうと思う。
 だからといって、突然ハッグしたりタッチしたのでは娘から「気持ち悪い」と嫌がられるのがオチだ。やはり日本流の以心伝心が一番か…。