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あの橋のたもとで

森 雅志 2004.08
 最近、安野屋から五福地内にかけての県道富山高岡線の沿線に空き地が目立つ。富山大橋の架け替えにともなって県が用地買収した土地である。現在ある富山大橋の北側に30mを超える幅員の橋梁をかけることになっていることから、神通川の左岸側、右岸側ともに多くの皆さんに用地買収に協力してもらうことになる。住み慣れた住宅や現に営業中の事業用地から他の代替地に移転してもらうことになるだけに地権者の皆さんの協力に感謝したい。
 ところで、現在の橋が二代目であることを知る人は多いと思う。また、かつては「連隊橋」と呼ばれていたことを記憶している人も多いだろう。最初に架橋されたのは明治42年であり、その二年前に金沢から移ってきた陸軍歩兵連隊に通じる橋として作られたのである。当時は「神通新大橋」という名称であったが、連隊に至る橋であることから「連隊橋」と称されたのであった。
 その後の老朽化により新しく架けられた橋が現在の「富山大橋」である。昭和11年に完成したときには「文化の架け橋モダン富山の豪華橋」と評された鉄筋コンクリートの橋であった。その後戦時中の金属回収令によって欄干が供出されたり、空襲で傷ついたりしながらも現在に至っている、歴史の証人とも言うべき橋なのである。
 僕もこの橋にはいろいろな思い出がある。その一つが3・4歳の頃に姉と一緒にバスでこの橋を通ったときに「姉ちゃん!僕、この橋の下に落ち取ったがやろ。」と叫んでバスの中を笑いの渦にしてしまった記憶である。当時我が家では大人が子供を叱るときに「拾ってきた橋の下に帰すぞ!」などと、今なら児童虐待だと言われかねない恐ろしい常套句が使われていたのだ。もっともこんな表現は当時広く使われていたのだと思う。だからこそ車内が和やかな笑いにつつまれたのだ。ある意味、良き時代であった。
 また長女が二歳の頃だったと思うが、この橋を通るたびに神通川を見ては「海だ!」と叫んでいたことなども思い出す。
何よりも僕が高校二年の夏に教室からこの橋の一部が陥没する様を見ていた記憶は鮮烈である。路面がV字型にくぼんでしまった富山大橋の姿はあわれでさえあった。昭和44年7月のことである。
 やがて確実に富山大橋は新しい姿に生まれ変わるだろう。それでも現橋は60年以上富山の地を見守ってきた橋としてそれぞれの思い出とともに多くの人に記憶されるに違いない。そう考えると、鋼製の構造物にすぎない大橋に向かって「頑張れよ」と声をかけたくなってくる。近いうちにあの橋のたもとに佇んで川面を眺めてみようかなァ。
 ところで新しい橋になると路面電車が複線化されて便利になるのだが、県営球場あたりに「〇庁」を移転するというのはどうだろうか。(軽薄な思いつきで言っただけですので忘れて下さい。)