過去のエッセイ→ Essay Back Number

高齢者・二態

森 雅志 2004.09
 過日、大阪駅のホームで椅子に座って電車が入ってくるのを待っていたところ、七十代後半と思しき老夫婦が目の前に立ったので席を譲った。僕の隣にいた若者も席を空けたので夫婦が並んで座ることができた。僕はしばらくの間所在なく立っていたのだが、目を老夫婦の方へ向けてみて驚いた。何と老紳士が座っていた席に二十代と思われる若者が座っていたのである。何が起きたのか分からずにいると紳士が僕の怪訝そうな表情に気付いて歩み寄り話しかけてきた。
 「私が荷物を持ったまま停車位置の確認をしようと席をチョット離れたところ彼が座ったのですが、彼にしてみれば爺さんがどこかへ行ったなと思って座った訳でしょうから、彼に恥をかかせないようにこうやって離れて立っているのです。」と話した上で「本当は電車を待つ間くらいいくらでも立っていられるのですが、先ほどは貴方が譲っていただいたので素直にご厚意をいただきました。袖が触れあう縁だと思ってご親切をお受けするのが旅のマナーだと思います。おかげで良い旅になりそうです。」と続けて話したのだった。
 僕はその落ち着きのある話し方や、早合点した若者に恥をかかせまいとまで考えて行動する姿勢に感動した。老成するとはこういうことを言うのだろう。爽やかな円熟と言っても良いかも知れない。
 自分だったらどういう態度を取っただろうかと考えながら我が身の未熟さを思った。
 話を大きく換えて、富山市が実施している七十歳以上の高齢者を対象とする無料入浴券のことを話題にしたい。市内の銭湯などを無料で月に二回利用できる券一年分を希望者に支給するという事業である。銭湯を高齢者のサロン化すると思えば元気な高齢者対策として効果的な施策だと思う。
 しかしこの無料入浴券が譲渡されており対価が相場化されているという話を聞いて驚いた。買い集めている銭湯があるという話に至っては信じられない。もしこれが本当なら立派な詐欺罪である。由々しきことだ。何よりも七十歳を超えた高齢者の中に小金欲しさに詐欺行為に荷担するものがあるとすれば実に情けないことだ。金銭面の得失よりもそういうさもしい精神こそが問題ではないのか。古稀を超えたその人の人生はいったい何だったのかと思う。あまりに情けない。
先に述べた爽やかな老人像との違いは大きい。生きることの難しさというものか。