過去のエッセイ→ Essay Back Number

こんにちは・ありがとう

森 雅志 2005.02
 登庁途中で時々見かけるカップルがいる。出勤するダンナさんを奥さんが車で送って来たという風情の二人である。男性が車から降りた後、女性が車中から手を振るのだが、男性は気付いていない素振りで足早に歩き出して行く。この様子を見ながら僕は「照れくさいのだな」と思って小さく笑ってしまうのだ。
 状況は違うけれど、飛行機の窓側の席で出発時の空港の様子を見ている時に整備の人に手を振られて困ってしまうことがある。丁寧な見送りに「ありがとう」とは思うのだが、こちらも手を振ることが照れくさくて、気付かない振りをしてしまうのだ。
このように、手を振って親愛の情を示すことは気恥ずかしいもので、仮に僕の妻が手を振ってくれたとしても僕も先述の男性と同じようにしてしまうだろう。ましてや、投げキッスなどをされようものなら反対方向を向いて走り出すかも知れない。そんなスタイルは僕らの世代には全く不向きなのである。
かく言う僕も送ってもらったことに感謝して妻に対して「ありがとう」という言葉を口にするし、先の男性も口にしているに違いない。家族に対しても、友人に対しても、あるいは周囲の誰に対しても何かをしてもらったら「ありがとう」と言うことは当然のことだ。外食時に注文したものが運ばれた時にも、買い物をして商品を渡された時にも相手に対して「ありがとう」と口にすることは当たり前のエチケットだと思う。
ところがそれが当たり前でなくなっている光景を目にすることが多い。対価を払うのだからサービスの提供を受けるのは当然で、感謝の言葉などいらないというふうにギスギスした態度の人を見かけて気分が悪くなることもある。人と人を繋ぐ潤滑油とも言うべき「ありがとう」という心を大切にすれば良いのになあ、と思う。
同じように「おはよう」とか「こんにちは」とかの挨拶を交わさない人の存在も気になる。僕はその日初めて出会った人にはなるべく挨拶をすることにしているのだが、時々挨拶をしても返事が返ってこないことがあり寂しい思いにさせられる。知らない人同士が気軽に声を掛けあうアメリカの社会が羨ましい。
人間関係は気持次第で柔らかくも温かくもなるものである。みんなが明るく挨拶をすればそれだけで少しずつ穏やかな社会が創られていくと思う。そして大人だけではなく、子供たちに対しても声を掛けることが大切なことである。知らない大人からの挨拶は無視しなさいと教える社会は問題だ。4月にはまた新学期が始まる。通学路で出会った新入生に「おめでとう」と声を掛け合うような社会であって欲しいと思う。それが「ありがとう」と「こんにちは」の心を忘れない子供たちを育てることにつながるのだから。
そこで、気軽な挨拶運動を提唱したいと思う。もっとも、その前に手を振られたら照れずに振り返すことを考えろと言われるかな。