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トトロの森よりとやまの森

森 雅志 2006.01.05
 過日読んだ本の中に、アニメーションの大監督であるあの宮崎 駿さんの次のようなエピソードが載っていたので披露したい。
 監督の名作『となりのトトロ』について、親から「うちの子どもはトトロが大好きで、もう100回くらい見ています。」というような手紙をもらうたびにヤバイなぁと思うというのである。誕生日に一回だけ見せればいいのにと思うのだそうだ。アニメ映画を作って発表し、それをビデオにして販売している制作者が自らの作品の愛好者に対して、あまり見ないようにして欲しいと何故思うのかということが興味深い点なのである。
 宮崎監督は、ビデオを100回も見せている親は子どものことを何も考えていないと言うのである。トトロのビデオを一回見ただけなら本物のドングリを拾いに森に行きたくなるけれど、ずっと見続けたらドングリ拾いに行かなくなることを心配しているのだ。
 まったくそのとおりだと僕も思う。僕はトトロの登場人物である女の子メイが感動したときに見せるあの思いっきり見開いた目の表情が大好きだ。そして僕の子どもたちにも色々なことに対してあんな目つきをして感動して欲しいと思う。あんな目つきでものごとの本質を観察して欲しいと思う。しかしその対象は決してビデオの中にあるのではなくて現実の世界にあることを忘れてはならないことも分かっていて欲しいと思うのだ。言わばトトロの森の世界に感動するよりも現実の森に足を踏み入れて、そこにある匂いや風や木々の動きや、あるいは生き物の生態にこそ感動して欲しいのだ。
 僕は幸いにも呉羽丘陵の一角で育った。したがって小さな頃は裏山や畑の中を走り回っていた。そして虫や小鳥と遊び、アケビやグミを食べ、漆の葉にかぶれたり、切り傷に血止め草をつけたりしながら様々な感性を養うことができたと思う。いささか大げさだが生きていくための基礎体力を身につけたのだと思う。極論を許してもらえるのなら、事象の変化を予感したり危険を察知したり胡散臭さを直感したりという感性の基礎を自然の中で身につけることができたのだと思うのだ。
 もちろん今の時代に子どもたちを森の中で育てることはできない。しかし機会を捉えて自然の中に身を置いてやることはできるはずだ。植物や生き物の生態を観察したり光や風の動きを感じることである種の感性を磨くことができるのではないのかと思う。そしてその感性が基礎体力を養うのだと思うのだ。
 しかしその感性はトトロのビデオを100回見ても養われないのであり、そのことを宮崎監督は指摘しているのである。幸いにも富山市にはあふれるばかりの自然がある。トトロの森よりとやまの森と言っては言い過ぎか。
 蛇足ではあるが、プールだけで覚えた泳ぎよりも足の届かない海で覚えた泳ぎの方が生きていく力になると言えば僕が言いたかったことを分かってもらえるだろうか。