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僕のアナタの距離は?

森 雅志 2006.02.05
 過日、ある地区の成人式に参加した。会場は予想通りの雰囲気の若者であふれていた。それにしてもいつ頃から「和の心」とはまったく無縁な髪型で和装する女性や、奇抜な色彩の羽織袴で参加する若者が増えたのだろうか。僕の目からは滑稽にしか見えないこの情景も慣れてしまうと一種の風物詩になるのか主催者側の表情にそれほどの違和感は見られない。平和な世相と言うべきか。
 伝統行事に和装をすることは歓迎すべきだとする意見もあるだろう。それはそのとおりである。しかし和装することの意味は、そのことと同時に伝統的な日本人観や社会観を意識することにあるのではないのか。奇抜さをねらった真っ赤な羽織袴を着ても彼らが「和の心」にふれたとは思えないのだが。そして振り袖姿の女性のほぼ全員が首に巻いているあの白いふわふわしたものはいったい何だろうか。一般的に和装の女性がああいうものを身にまとっているのを見たことがないだけに不思議でしょうがない。もしも防寒のためのショールなら外套と一緒に室内では外すべきものではないのかなどとこだわるのは僕だけか。いずれにしても誰かに仕掛けられたかのように成人式のパターン化が進んでいるのが気かがかりではあるが、国民の祝日じゃないか、素直に若者たちの未来にエールを送ろう。現に式の後で会った奇抜な羽織袴青年も話してみるとみんな好青年であった。
 ところで先の成人式の際にも感じたが、最近はその場の空気と関係なく大声で話す人たちが多いと思う。もちろんどんな会場であれ私語を交わす人たちはいるものだ。葬儀の場でささやきあっている人さえいる。それでもその人たちなりに全体の空気は推し量っているものであり、沈黙しなければならないときには自然に咳一つない瞬間が生まれるのが世の中だ。しかし最近は周囲の雰囲気を気にせずに、まるで家庭の中で家族と喋っているかのように自分たちだけの距離感で話す人が多いと思う。(そう、距離感という表現が分り易い。)社会というものは自分と他者との適当な距離感が保たれてこそ穏やかなものになると思う。ところがそのあるべき距離感を意識しないで傍若無人に振る舞われるとどうにも疲れてしまうのだ。
例えば劇場や映画館などでお互いに解説しながら鑑賞している人たちに出会うことがあるが迷惑千万である。茶の間でホームビデオを見ているならともかく公衆の中に私生活を持ち込まれてはたまったもんじゃない。周りを気にせず携帯電話で話す人や公衆浴場で隣に掛かるくらいの勢いで掛け湯を使う人なども同罪であろう。まさに隣の人とのあるべき距離感を意識していないということなのだ。
成人式の様子にいささか辟易はしたが若さのなせることとも言えるわけで、今の世相を考えれば大人面して意見はできないと反省させられた。せめて本稿で述べた距離感のことをチョットでも考えてくれたら良いのだが。