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花を愛でるように

森 雅志 2006.11.05
 某紙のコラムがきっかけとなり、インドの詩人タゴールが大正5年に日本を訪れたときの印象をまとめた「日本紀行」を読んだ。
 この中でかの詩人は、茶道、生け花、俳句、そして女性の美しさに感嘆の声を上げている。しかし、それ以上に強調しているのが当時の子どもたちの様子である。幼い子どもたちが路傍や空き地、境内などいたるところで明るい声をあげながら遊んでいる情景に感動している。その様子に心を和ませながら、他の国では見たことのない光景だとしているのである。
 日本には街を警らする警察はいらないと言われていた良き時代の一断面であろう。隣人同士が支えあい、地域がしっかりと機能していた時代である。人々の暮らしは開けっぴろげで明け透けで家に鍵をかけることもなく、それでも安全な暮らしが営まれていたのである。そんな中で子どもたちは地域の一員として屈託なく育ち、かつ自分の役割や社会というものを学んでいたのだ。隣近所が社会の一つの単位となっていた時代であった。
 詩人はこの様子を「日本人が花を愛でるように、子どもたちを愛しているからだと私は思った。」という言葉で表現している。この「花を愛するように子どもを愛する」という言葉をかみしめて行かなければならないと思う。
 一方、我々の社会は戦後になってイギリス型の個人主義というものを学び導入してきた。それは個人こそが社会の一つの単位であり、親子や夫婦の間においてもプライバシーが尊重されるべきであるという考え方である。確かにそれは大切なことである。しかし個人を尊重するあまり、子ども部屋は独立した自由空間となったり、夫婦が単なる共同生活者になったり、場合によっては社会の中での家族の意義が否定されるようになったりしているのではなかろうか。
 はたして我々はイギリス人のように個人主義というものを使いこなせているのだろうか。個人が社会の一単位だということを正確に理解しているのだろうか。先に述べた大正時代の明け透けな隣人社会と個人主義とのはざまで右往左往しているのが現状ではないのか。その結果、家族の大切ささえをもおろそかにしているのではないかと思えてならない。我々の社会が当面している様々な問題の根底に、この家族の喪失ということがあるのではないのかと思うのだ。
ここらで家族のありようについて再考することが大切なのかも知れない。家族主義とでも言うべき、家族を社会の一単位とする生き方についてじっくりと考えてみようではないか。あまり家で食事をしない僕が言うのも変だけど、家族を大切にする気持ちこそが生きていくエネルギーの源泉なのだから。
子どもは家族との団欒をとおして地域や社会との関わりを学び、生き方を考える指針とし、親はその団欒をとおして花を愛でるように子どもを愛することが大切だということだ。