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ひかり保育園の思い出

森 雅志 2007.01
 僕は昭和27年の8月生まれである。ちょうどこの年の4月に進駐軍による占領が解除されたという年である。占領が終わりあらためて独立国として歩み始めた年である。そんな時世の中で、旧呉羽町の吉作の専業農家の長男として生まれたのだ。その頃の農家はどこの家でもそうだったと思うが、我が家も多いときには10人もの大家族であった。したがって物心ついたときから大人の暮らしにあわせて育てられたのである。家族と一緒に畑に行き、時には畑で昼食も済ませるような暮らしである。もちろん近所の同世代の子供たちと遊んではいたけれど、その遊び場は自宅の周囲か、あるいは近くの畑であった。つまりその頃の僕らにとってそれくらいのエリアが自分にとっての世界であり、全宇宙であったのである。
 当時の呉羽町にも保育施設があったのだろうが、忙しい農家にとってそういう施設まで子供を送ってやる余裕などあるはずもなく、5歳までは畑を遊び場とするしかなかったのだ。やがて就学の年齢が見えてきた頃を見計らって集団生活を経験させたほうが良かろうと親が考えたのか、あるいは生意気な子供がうるさがられたのかは分からないけれど、昭和33年4月からの一年間ひかり保育園にお世話になったのであった。
 近所の同じ年の子らと一緒に路線バスで通園していたのだが、首から提げていた定期券のことも、バスの車窓から見える町の様子も、大学前から走っていた電車も、球場前のバス停から保育園まで歩く道すがらも、全てのものが珍しく興味をそそられるものばかりで毎日ウキウキして通園を開始した記憶がある。
 なによりも狭い世界の中で育ってきた世間知らずの子供にとっては保育園での多くの仲間や先生との出会い、あるいは繰り広げられる様々な出来事の全てが新しい世界との遭遇だったのである。ひょっとしたらあの一年間という時間がなかったとしたら僕の小学校生活も少し違ったものだったかもしれない。極端に言えば、僕の人生の中であの初めて登園した日が内の世界から外の世界へと飛び出した瞬間だったのかもしれない。その意味ではひかり保育園に感謝しなければなるまい。
 毎日どうやって過ごしていたかということをつぶさに思い出すことはできないけれど、ご住職がときどき法話をされたことと鐘楼で鐘をついた記憶が鮮明にある。
 卒園した年、小学一年生の夏であった。トラホームに感染した僕は夏休みの間中一人でバスに乗って市内の眼科医に通っていた。ある日、歩いて帰ったらバス代が小遣いになることに気付いた僕は、その日以来ときどき親に内緒で歩いて通院したのであった。そんな折に2・3度ではあるが、こっそりとひかり保育園に寄ってそっと中の様子を見ていたことがある。懐かしい先生の顔を認めてはいたが、なぜか声をかけることはなかった。この年になるとそのときの少年の心理を推し量ることはできないけれど、このこともまた懐かしい思い出である。
 いろいろなことを思い出してみるにつけ、思い出深いひかり保育園の発展を願わずにいられない。ひかり保育園万歳!
 (長光寺誌 発刊に寄せて)