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消え行く立ちション

森 雅志 2007.04
 あまり品の良いタイトルではない。でも非難を承知で立ちションの話を綴りたい。だからと言って立ちションの武勇伝や正しいマナーの話をしようというのではない。驚きの新聞記事を紹介したいのである。
 それは、最近、立って小用をする人が減ってきているという記事であった。つまり洋式の便器に座って小用をする男性が増えているというのだ。記事によれば、アンケートの結果約3割の男性が小だけの用向きにもかかわらず便座に腰掛けて用を済ましているというのである。足腰がおとろえた高齢者の調査ではなく、小さな子供から40代くらいまでの男性の実態だというのである。
 立って小用をすれば前のファスナーを開ければ済むものを、座って行うとなるとズボンを下げなければならない。男の特権ともいうべき構造上の利点を放棄してまで便座に座ることの理由は何なのか。最近は立って用を足すには疲れてしまうほどに所要時間を要する人が増えたのか?などといぶかりながら記事を読み進むとやがて謎が解けたのであった。なんとその訳は、立って用を足すとトバシリで便器の付近が汚れるからだというのであった。小さい子供には母親が、成人男性にはその配偶者という監視人が付いており、彼女たちの論理では便器の前を汚すのは立ってことをなすからだということになるらしい。従って最初から座って作業をすればノープロブレムということなのだ。全国のトイレに蔓延している「急ぐとも心静かに手を添えてウンヌン〜」の標語だけでは飽き足らず、僕らの気付かないところで密かに、しかし確実に僕らの至福の行為を変質させようという陰謀が進行しているということだ。
 放尿という必然かつ快楽の行為を開放感あふれる姿勢ですることを許さないトレンドを放置していて良いものか。子供の頃に小川の土手などで思いっきり用を足した記憶を持つ人は多いと思う。その記憶を男の特権と言わずになんと言う。太陽の下で大っぴらに立ちションすることが出来なくなった時代ではあっても、せめて用を足すときは両足を踏ん張って力いっぱいことをなすべきじゃないのか。それこそ日本男児の生き様というものだ。
俯いて生きて行くような座り派の軟弱男に用は無い。前を向いて生きる立ちション派こそが未来を担う。立ション万歳!日本万歳!
立ちション派は結集せよ。立山に向かって連れションだ。文句あっかー。(酷い文だなぁ)