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巣立ちの春

森 雅志 2007.04.05
 僕が執務室でコーヒーを飲むときに決まって使う陶器のコーヒーカップがある。もう長い間このカップを使ってきているので内側の部分や持ち手の辺りが黒ずんでしまっている。実は僕の持ち物や身の回りの品の中でこのカップの愛用期間が一番長い。昭和46年の4月に買ったものなのだから、もう36年間も使っているということだ。良くぞ毀れずに使用に耐えてきたものだ。褒めてやりたいくらいである。
 そのうえに僕はこのカップを購入した日も場所もチャンと覚えているのだ。4月3日、世田谷区の小田急線・経堂駅前の小さな雑貨屋で買ったのである。なぜそんな昔のことなのに覚えているのか。それはその日が大学に入学し東京で暮らし始めた最初の日だったからである。
 東京の大学に進学することを決めたものの、東京は不案内のうえ親戚もないことから父の戦友を頼ってまかない付きの下宿を探してもらったのであった。それが経堂駅から徒歩15分という下宿屋だったのである。いよいよ4月に入り、東京での一人暮らしを始めるべく上京し、四畳半の生活に必要な品物を調達した中にそのコーヒーカップが含まれていたという次第である。
 僕には姉がいるが彼女は高校を出て富山で勤めていたので、僕が家を出て東京で一人暮らしを始めることは家族にとって大事件であったに違いない。そのせいもあって初めて下宿に入るというその日は父親が一緒に上京してくれた。父は下宿のおばさんに挨拶をし、僕の部屋を確認し、部屋を探してくれた戦友を訪ねたうえでその日のうちに帰って行ったと記憶している。あまり多くを語らず、ただ「頑張れよ」と言って上野駅へ向かった父であったが、その胸中を去来したものは大きかったに違いない。息子の巣立ちに対する喜びと期待、親としてのチョットした満足感、そしてかすかな不安と寂しさなどであったのだろうか。その時はそこから始まる新生活にばかり気持ちが向かっていてそんな親の気持ちに気付かない僕であったが、この歳になるとその時の父の思いが良く分かる。親とは本当に有り難いものだと思う。その親の思いや東京での多くの記憶を手元のコーヒーカップが時々思い出させてくれるのだ。その意味では大切な宝物なのである。
 そしてまた四月がめぐって来た。巣立ちの季節である。あの日の僕のようにあふれる希望を胸いっぱいに抱いて新生活に入る若者が沢山いる。彼らの青春の日々が充実したものであることを願おう。一方、あの日の僕の父のように、成長していく子供を送り出しながら期待と同時に寂しさを感じている親も多いことだろう。その親御さんたちにもエールを送りたい。しかし何よりも、巣立っていく若者たちが温かく見守っている親の思いをきちんと受け止めてくれることを願わずにいられない。親とは本当に有り難いものだ。