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何でも一緒じゃなきゃイヤ!

森 雅志 2007.07
 最近やたらと「格差」という言葉が使われる。そしてその殆どが現状を否定的に捉えようとする使われ方である。「地域格差のあることが問題だ」とか、「格差社会が進行していることが不安だ」などの類である。
もとよりそういった指摘の多くは充分に納得できる「格差」の指摘であろう。しかしながら、時にはこの言葉の使い方の裏に、極端な均質主義とでもいうべきものを感じてならないことがある。個体間にある本来的な違い、個体差といった程度の差や、それぞれの地域の特性とも言うべき違いや、自ら選んだ生き方の結果として生じる生活の質の違いといったことなどを、「格差」だと叫んで問題視している傾向があるのではないのかと思うのだ。
全ての人間には能力差や個性がある。その結果としてハンディキャップが生まれることがあるが、そのハンディキャップを軽減したり解消したりしようとすることと、あらゆる生き方を均質にしようとすることとは全く異質のものなのだと言いたい。そこのところの考え方の違いから派生して、世の中の事象はなるべく均質均等であるべきだという誤った思想が導かれているのだろう。均質の社会、つまり没個性の社会が望ましいとする考え方である。そうではあるまいと僕は思う。
村上春樹の「風の歌を聴け」の中で、ケネディーの言葉だとして「人間は生まれつき不平等に作られてる。」というフレーズが使われているのだが、すごく印象的であり頭に残っている。だからこそ僕らは前進しようとするのだし、成長しようとするのだと僕は思う。何でも同じじゃなきゃ駄目だ、均質がいいのだという考え方が過ぎると、人も社会も活力のないものになってしまう。個性こそが伸びていく原動力なのだと声を大きくしたい。
その意味を込めながら、肯定されるべき「格差」が沢山あるのだと敢えて言いたいと思う。
ここのところの学校選択制の議論を見ていて以上のように思わされた。賛否の根底にあるものは、学校間に生まれる「格差」を認めるのかどうかということだ。学校現場に活力が生まれ、切磋琢磨する意欲が高まり、結果として市立中学校全体の質が向上すると考えるのか、全体の質が向上しなくても良いから全ての中学校の水準は均質であるべきだと考えるのかの違いなのだろう。
この際、多くの人に議論をして欲しい。「格差」についても考えて欲しい。でも、何でも一緒じゃなきゃイヤ!で本当にいいの?