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上機嫌な家庭

森 雅志 2011.02.05
 最近テレビで流れているコマーシャルの中に、すごくぬくもりを感じさせてくれる内容でお気に入りのものがある。ある企業のコマーシャルなのだが心に沁みる詩なので、あえて引用したいと思う。(決してその企業の宣伝をしようとしている訳ではないので誤解なきよう。)
 『家路が幸福ならば、人生は幸福だと思う。』
というタイトルで、次のように綴られる。

「きょうも帰ってゆく。
いつもの道で、いつも思う。
どんなに遅くなっても、どんなに一日の疲れを背負っても。
家に近づく一歩ごとに。
心が、ほころんでゆく。
あの角を曲がれば、もうすぐ「わが家」のあかりが見える。
今朝出てきたばかりの、住みなれた、その家なのに。
なぜだろう。
いつも、胸がちょっと熱くなって。
いつも、自分の幸福について、思うのは。」

なんて、帰るべき家の暖かさを感じさせる詩なのだろう。ぬくもりを感じさせる詩なのだろう。なぜか目頭が熱くなってくる。そしてバックに流れるCMソングがまたいい。特にその曲の次の歌詞が心地良い。
「この街に この家に 心はかえる」と歌う。
専門家とは言え、コマーシャルのコピー(言葉)を作る人たちの感性には参ったと言うしかない。
 誰にとっても「わが家」は宝物だ。生き物が持つ帰巣本能の目的地としての「巣」という意味を超えた、家族のぬくもりの場として「わが家」があるのだ。だから人は「わが家」に帰るときには自然と心がほころんでいくものだ。とりわけ、子供の頃の夕方の記憶、急いで帰らなきゃと走った姿、そんな心象風景を思わせてくれる良い詩だと思う。
 タイトルの『家路が幸福ならば、人生は幸福だと思う。』というフレーズも奥が深い。もしも家の中に嫌なことがあれば、もしも家路が憂鬱をもたらすとしたら、それは決して幸福ではないということだ。考えてみれば、そんな思いになったことが全くなかった訳ではない。どんな家庭にもイザコザやトラブルがつきものだ。暗い日々もあっただろう。それでも家族の力で困難を乗り越えて幸福な家路を回復してきたということなのだ。
娘たちが小さかった頃に、車の中から見かけた帰宅途上の娘の表情にハッとさせられたことがある。いつもの輝きが感じられず、ふさいだような表情を見せていたからである。その娘の表情が、家の中で不機嫌でいた僕自身のことを気づかせてくれたのであった。あの日の娘の顔は今も時々思い出す。不機嫌な気分になった時の反省の糧となっている。
 いつも上機嫌な家庭であること、もとより誰でもそう願っている。そのためには、先ずは自分自身が家族の存在を大切に思うことが重要であり、そして家族が一緒にいる時間を増やそうと努力することも必要だと思う。
何を今さらという感じがしないでもないが、「仲良きことは美しきかな」というところか。家族が毎日「幸福な家路」を辿れるような仲の良い上機嫌な家庭でありたいものだ。