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桜と言えば…

森 雅志 2011.04.05
 最近よく、「桜の木になろう」という曲を耳にする。AKB48というグループの楽曲である。僕の年齢になると若いタレントについての知識が無いにひとしいのだが、とりわけこのグループは全員が同じようにしか見えず、我が家の娘達がメンバーの名前を知っていることが不思議でならない。老年層へと差し掛かろうとしている我が身を思えば当然か…。
 それでも先の「桜の木になろう」という曲はいい曲だと思う。秋元康の詩が良い。桜の木をシンボリックに使いながら卒業という巣立ちの心理をうまく表現している。明日への希望に燃える旅立ちに際し、不安になったときの戻る場所として、桜の木になって待っているよと励ます内容なのだ。若者に限らず新世界に飛び立つ者には、小学校の校庭にあった桜木のような、心の止まり木とでも言うべき存在が必要なのだ。そのことをこの曲は次のように歌う。
  永遠の桜の木になろう
  そう僕はここから動かないよ
  もし君が心の道に迷っても
  愛の場所がわかるように立っている
  (JASRAC出1103579-101)
 小学校の校庭の桜と言えば、僕も母校の正面玄関前にあった大きな桜を思い出す。改築によって今はもう無くなったのだけれど、僕の心の中にはいつまでもあの桜木がある。母と一緒に登校した小学校の入学式の朝、満開の桜が迎えてくれていたことを忘れない。あの日の光景が僕の中の一番古い桜の記憶なのだと思う。もちろんそれ以降、今日までの日々の中にも忘れられない桜の記憶は沢山ある。場所も南は鹿児島から北は弘前の桜まで、ちょうど満開の時を選んだかのように訪ねたことも多い。それでも僕の中の桜の記憶の原点はあの入学式の朝なのである。先の「桜の木になろう」は卒業の歌だけど、僕にとっての桜は入学であり旅立ちのシンボルとなっているのだ。(この稿が配布される頃がタイミング良く今年の満開にぶつかるといいのだがなあ…。)
 さて、詩人茨木のり子の作品にも「さくら」という表題の詩がある。ひとつの作品を一部分だけ切り取って紹介するという酷い作業の繰り返しにはなるが、冒頭の部分を紹介したいと思う。
  ことしも生きて
  さくらを見ています
  ひとは生涯に
  何回ぐらいさくらをみるのかしら
  ものごころつくのが十歳ぐらいなら
  どんなに多くても七十回ぐらい
  三十回 四十回のひともざら
  なんという少なさだろう
    (略)
(茨木のり子「食卓に珈琲の匂い流れ」)
不覚にもこの詩を読んではじめて気付かされた。長い人生、桜を見る機会なんて数え切れないほどにあると思っていたのだが…。長生きの人でも七十回くらいしかないのだ。満開の華やかさと、すぐに散ってしまう儚さとの対比にこそ桜の魅力があると思ってきたが、その魅力に触れられる機会は永遠にある訳じゃないのだ。桜の儚さは人の命の儚さの化身でもあるのだ。そう感じさせてくれる良い作品だと思う。一読をお勧めする。
茨木のり子が気付かせてくれたからには、あだや戯れに桜を愛でるべからず!と思う。