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オヒツの話をもう一度

森 雅志 2011.05.05
 関東や東北において夏場の電力不足が懸念されている。原発の事故以来、必要な発電量を確保することが困難になっており需要量を減少させるしか方法がない状況なのだ。
そのせいか、最近の東京は駅などの照明が暗い。動いていないエスカレーターも多い。街が本当に必要としている便利さについて再考しようという流れになってきているのだ。一人ひとりの暮らしについても同じことが言える。便利さの追求が行き過ぎていないのか考えてみる時なのかもしれない。そもそもトイレに入ったら自動的に蓋が開くとか、手をかざすだけで水が出る蛇口とかは本当に必要なのだろうか。子供たちが別々の部屋でエアコンをつけながら同じテレビ番組を見ているような暮らしはいかがなものか。お茶の間で一緒に見れば良いものを。
この際、電力不足を契機として僕らの生活全般について再点検することが大切ではないかと思う。そんなことを考えていたら何年も前に書いたエッセイを思い出した。節約だけでなくあるべき暮らし方を考えるという意味で今こそ読んで欲しいと思うので再掲したい。
タイトルは「オヒツは何処へ?」。
(略) 子供の頃にオヒツ(お櫃)を足で炬燵から押し出しては叱られていたことを思い出した。懐かしい記憶だ。我が家にあったオヒツはおそらく杉材で作られたもので小豆色に塗られていた。使い古されていたのだろう所々の塗りが剥がれていたように思う。
 思えばオヒツは必需品であったのだ。朝お釜で炊いたご飯を夕食までオヒツに入れて保存しておく。冬にはそれが冷めないように毛布などで包んで炬燵に入れておくのだ。オヒツの中には家族の一日分の主食が確保されていたのだから実に大切なものであったのだ。それを炬燵で蹴れば叱られるのは当然である。冷めるからという理由だけではなく、ご飯を大切にするということの教えとして叱られたのだと思う。
 あの頃の我が家は何時も家族そろっての夕食であった。母親がオヒツを開けてみんなのご飯をよそってくれて食事が始まったと思う。僕は祖父からご飯粒を茶碗に残すなとしばしば叱られた。祖母からは魚をきれいに食べろと教えてもらった。あの頃は何処の家にもあった家族の姿である。そして食卓にはいつもオヒツがあったのである。
 やがて電気釜が登場しジャーというものが現れ、炊飯ジャーへと進化してきたのだ。タイマーをセットしておけば希望する時間にご飯が美味しく炊きあがるうえに、いつまでも保温してくれるのだから有り難い。もう誰もオヒツを必要としなくなってしまったのである。オヒツを眼にすることもなくなった。おそらく我が家の娘たちはオヒツという言葉も知らないだろう。考えてみると、便利になることで調理の仕方や食事の内容も変わり、台所にある食器や道具も変わってきたのだ。今や食洗機で食器を洗うという時代なのである。
 おかげで食生活は多彩になり家事労働も改善されてきた。素晴らしいことだ。生活の質の向上と言っても良いと思う。
 しかし便利さの裏返しとして、家族がそろって食事をする機会が減少しているのではないのか。子供たちを皿洗いなどの家事労働から遠ざける結果となっているのではないだろうか。そんなことを心配してしまう。時には冷えたご飯を食べながら、食べ物の大切さを教えることが必要なのではないのか、と思う。