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靴を磨く?磨いてもらう?

森 雅志 2012.05
 最近、足元の靴が気になる。いつも綺麗に手入れされた靴を履いていたいと思いながらも磨く時間を作れないことが多いからである。以前は時間を見つけては集中して一度に10足くらい磨いていた。夕食後などに、玄関に靴を並べては傍らに水割りなどを置きながら靴を磨く。チビチビやりながら黙々と磨いているとやがて心が落ち着いていく。無心になれると言ったら大げさだけど、ストレスを忘れてスッキリした気分になれるのだ。それが心地良いものだから、頼まれてもいないのにカミさんの靴まで磨くこともあった。結構、カミさん孝行だったのである。
ところがカミさんの最期を看取ることになった後はそういう時間を見つけられないでいる。ただでさえ忙しい毎日でありながら、今まで以上に家事をこなす必要に迫られているからだ。家事全般の中にあって靴を磨くことの優先順位はどうしても低くなってしまう。(まあ、怠けていることに違いないけどね)。
誰かに磨いてもらえば良いのだけど、残念ながらわが富山市には靴磨きというシステムがない。その結果、足元を気にしながら暮らすということになっている。
そこで、出張の際にうまく時間が取れると靴を磨いてもらうことにしている。上京の都度、なるべく違う靴を履いて行くことで順番に手入れがされるよう心がけている。何足か持参して行きたいくらいなのだが、さすがにそこまでは出来かねている。
新橋駅前ではこの道40年とでも言うべきオバアチャンが頑張ってくれていて、運良くこの方にお願いできた時には靴を磨いてもらいながらの会話を楽しんでいる。親と違わない歳の人に足を投げ出して、自分は椅子に座ったまま新聞を読む、そんなことはとてもできない。会話をしながらサービスを受けて御礼の気持ちと一緒に料金を払う。小さな声で「お釣りは取っておいてね。」と言うと、「おやおや、良いのかい。」などと返ってくる。なぜかホットした気分になれる。有り難いことだと思う。(親のような歳の人に磨いてもらうことに心苦しさが無い訳じゃないけれど、いつまでも元気でいて欲しいと思う。)
先日、某所で時間調整の合間を使って靴を磨いてもらった。このお店のスタッフが若いお嬢さんであることに驚きながらも雰囲気の良い椅子に腰を下ろした。普通は簡単なパイプ椅子に腰掛けることが多いけれど、それとは違いこの店のセットは特別しつらえなのであった。若いお嬢さんが僕の足元にかしずき、丁寧に慈しむように靴を磨いてくれる。やがて、うら若き女性の胸元に足を投げ出して悦に入っている自分の姿に気付き恥ずかしくなってしまった。メイド喫茶じゃあるまいに…(そういう場所に行ったことはないけれど…)。多くの人が行き交う空間に身を置きながら若い女性にかしずかれて嬉しそうにしているのかと思うと耐えられない気持ちになり、黙って下を向いていた。消え入りたい気持ちであった。新橋のオバアチャンのところに行けば良かったと思いつつ、お嬢さんの作業が終わるのをじっと待っていたのだった…。
恥ずかしい姿を晒すくらいなら汚れた靴で帰宅して、酔った勢いのまま玄関で磨けば良かったと今も反省している。靴を磨く前に恥を知る心を磨けということか。
僕の中の怠け心を取り払って無心になれる作業を再開させたいと思いつつ、富山市内に落ち着いた靴磨きシステムが誕生して欲しいとも思う。次世代型路面電車(LRT)やパリのヴェリブと同じ自転車市民共同利用システムなどを整備しながら、歩いて暮らせる街を目指している富山市だからこそ綺麗な靴で闊歩する市民が街に溢れて欲しいと思うからである。