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妻の糠床

森 雅志 2013.10.05
 すごく良い本を読んだ。河野裕子・永田和宏共著の「たとえば君」(文芸春秋、2011年)というエッセイである。著者の2人は歌人であり長く連れ添った夫婦なのである。したがってその内容はエッセイと言うよりも歌集と言ったほうが良いくらいに心を打つ短歌であふれている。サブタイトルが「四十年の恋歌」となっているように2人の間における相聞歌が編まれているのだ。2人の出会いから始まり、子育てや多忙な日々の歌が続き、やがて訪れた妻の発病と再発、そして妻の絶筆と夫の挽歌で閉じられている。心にしみる短歌が多い。
 自分自身の過ぎていった日々を思わされる歌も多かった。亡き妻の病気を初めて告知された日のことを思い出させられた歌もあった。平成元年の8月のことであった。当時は今と違い、患者本人に直接告知しない時代だったのであろう。配偶者である僕が主治医から連絡を受けて話を聞いた。その報告のために妻に会う直前、涙が止まらなかったことを忘れない。悪性なものではないとごまかしながら闘病生活を支えてきたが、時には不安におびえる妻とぶつかることもあった。そんなときの心境を見事に表現しているのが次の一首である。

      平然と振る舞うほかはあらざるを
      その平然をひとは悲しむ

この場合の「ひと」は作者の病める妻をさすのであろう。平然としているようでも知らずに心中の不安が面にでていたということか。僕の場合も不自然な平然だったに違いない。その不自然な平然さから全てを察知した妻は敢然と病と闘い、それから20数年の間、彼女らしい人生を紡いでいってくれた。再発が分かった後も弱音を吐かなかった。あっぱれだったと思う。もう一首だけ紹介。

      一日が過ぎれば一日減っていく
      君との時間 もうすぐ夏至だ

 さて、河野さんのエッセイに「糠床」という一文がある。病床から夫に対して口やかましいほどに糠床を「混ぜてね、混ぜてね」と言い続けた逸話である。糠床に入っているものは、糠と塩と鷹の爪、飲み残しのビール、鰹節一本、昆布、卵の殻三個分なのだとか。そして文末は次のように綴られている。「大事に愛情をかけて撫でること。時間をかけること。それは主婦としての甲斐性みたいなものである。私の糠床が、無事に年を越して元気であってくれるように願っている。」
 この一文を読んで僕は打ちのめされてしまった。病床の妻から僕も何度も糠床を混ぜるように言われていたからである。亡き妻が糠床について主婦としての甲斐性みたいなものだとの思いでいたかどうかは分からないものの、大切にしていたことは推測できる。だからこそ何度も僕に対してかき混ぜるように頼んだのだろう。今になって思えば、僕の対応はひどく横着なものだったと思う。妻の思いも知らず糠床に手を入れることを面倒がってばかりいた。それどころか、妻が亡くなってしばらくした時期に、僕が糠漬けを作ることもあるまいと、冷蔵庫の中にあった糠床を廃棄しようとさえしていたのである。いくらなんでもそれは良くないと注意してくれた人がいて廃棄はしなかったものの、今は知人宅の冷蔵庫で熟成を続けているはずだ。
 河野さんのエッセイに触れなければ妻の糠床のことを思い出すことさえなかったかも知れない。糠床を大切にしていた妻の思いも忘れてしまって、廃棄しようとした僕の行為は薄情極まりないと思う。僕の非情さをこのエッセイで披露して懺悔話としたい。