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「冬に」そして「春に」

森 雅志 2015.03.05
 僕は蕗の薹が顔を出し始めるこの季節が好きだ。二月に生まれた長女に蕗子と命名したゆえんもそこにある。いわゆる「三寒四温」の気温の変化が「春めく」という言葉と重なって嬉しい気持ちにさせてくれる。
 子供の頃、早春の昼下がりに小高い茶畑にたたずみ春の日差しをあびていた日があった。遠くを見はるかしながら、背中に感じていた緩やかな温かさのことが忘れられない。穏やかな記憶である。
 冬の間は景色から色彩が消える季節だと言われることがある。確かに曇天の日が多い。静寂に包まれる雪の日ならなおさらだ。雪道を歩くときには知らずに俯きがちになってしまう。亡くなった祖母は「黙って雪が降る」という言い方をしばしばした。そんな雪道を子供の僕は黙々と歩いて通学したのだ。しかしやがて春めいてくる。蕗の薹が芽吹き色彩を帯びた季節に移ろっていくのだ。そんなことを感じる瞬間が大好きであった。
 谷川俊太郎さんの詩に「冬に」と題したものがある。(本当はこの詩を全文ここに書いて紹介をしたいのだけれども著作権の関係でそれができないのが残念である。広報のエッセイに一回引用するだけなら著作権の使用料は大したものではないのだけれども、ホームページに掲載するとなると毎年使用料が発生するので躊躇せざるを得ない。)この詩は「冬に」と題されているにもかかわらず冬という言葉が一度も出てこない。冬という季節が人の気持ちを内向きにしてしまいがちだという前提で、それでも前を向いて生きていこうと呼びかけてくれるのだ。生きるために生まれたのだからと詠うのである。(ああ、ここにその全文を紹介したいと強く思う。)興味のある人は何とかこの詩を調べて見てほしい。お薦めです。
 そして詩人は、「春に」という詩も書いている。連作という訳ではないのだけれども、この詩がまた素晴らしいのである。(これもまた紹介ができないのが重ねて残念である。)この詩にも春という言葉は出てこない。ただ「この気持ちはなんだろう」が何度も繰り返されていることが特徴的である。冬から春に移ろう中で大地から僕らのからだに伝わってくるこのエネルギーはなんだろうと詠うのである。春という季節が持っている不思議な力なのだろうなあ。
そしてこの詩は中学生の教科書に掲載されてもいた。富山市でも平成23年までの教科書には載っていたようである。大人の世界への第一歩を踏み始めた年頃の子供たちにとって、春は思春期に重なるものであり、この詩は思春期の子供たちの心理的状態を表現しているとも言えるのだ。この詩を読む子供たちは自分自身の心のありようと重ねながら読んでいたのだと思う。成長していく過程で感じる喜びや不安、様々な感情がごちゃ混ぜになる時期に出会うには良い詩だと思う。これもまたお薦めです。
2人の娘たちにこの詩の話をしたところ、突然歌いだしたので驚いてしまった。それもハーモニーを付けて合唱を始めたのであった。聞けば彼女たちが中学生の頃の合唱コンクールではこの歌が毎年歌われていたらしい。思春期の子供たちが共感しやすいからこそ選ばれていたのだろう。十数年が過ぎてもしっかりと覚えていることがその共感の強さを物語っている。
このエッセイが掲載される頃はすっかり「春に」なっているのだろうなあ。