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今日、あなたは梨の木を植える
森 雅志 2015.09.05
この暑さの中、もうすぐ92歳になろうという父が元気に梨畑で働いている。顔を見るたびに熱中症に気をつけるようにと声をかけているものの心配である。まあ、体の芯は僕よりはるかに強い人なので、ちゃんと自己管理をしてくれるとは思うけれど…。
なにせ、先だって富山駅からのバスツアーで姫路城まで行ってきたくらいなのだから。帰ってから聞いたところによれば、姫路城に加えて日本のマチュピチュと言われている天空の城、竹田城跡まで行ったとのこと。僕も一度訪ねたことがあるが、駐車場から結構な距離を歩かなければならないうえに、登り坂がきついコースである。よく登れたものだと驚いてしまった。「登りが大変だっただろう?」と聞いたら「同行者に迷惑をかけられないから頑張って先頭を歩いた」とのこと。恐るべし91歳と10ヶ月。その父が、今年の春も梨の苗木を植えた。背丈が1m位しかないような苗木である。本人の弁によれば、5年くらいで一定量の収穫はできるものの人工授粉の花粉を取るための木にしたいので大きな木に育てたいのだと言う。いったい何歳になるまで梨の栽培を続けようと思っているのだろうか。まさに恐るべき老農夫である。
ギリシャ文学を代表する作家であるニコス・カザンザキスの小説に「その男ゾルバ」という作品がある。その小説の中で、主人公ゾルバが90歳になってもアーモンドの苗木を植え続ける老人に邂逅する場面がある。老人は永遠に生き続けるかのように仕事に精を出すのだ。それに対してゾルバはいつ死ぬか分からないと言わんばかりに遊びに精を出す。どちらの生き方が正しかったのかと作家は問うのである。老人はまれに見る楽天家だ。アーモンドは実がなるまでに5年ほどかかるのだから。だが一度植えれば50年先まで毎年実をつける。アーモンドは次世代に対する投資なのである。いや、それよりも苗木を植えるという作業自体が老人にとっての生きがいなのであり、その作業があるからこそ老人に明日が来るのである。
わが家の老人も小説の老人と同じように苗木を植える。永遠に生き続けるのだと信じているかのように。そして不肖の息子はゾルバのように遊びに精を出す。「その男ゾルバ」の作中のエピソードそのものじゃないか。農業後継者でありながら、高齢である父の作業を手伝うこともなく毎日の繁忙さに追われているわが身の身勝手さを思うと身の置き所がない。そんな僕の存在など一顧だにすることなく黙々と農作業に精を出し続ける父の心中を正確におしはかることは出来ないけれど、小説の中の老人のように穏やかで達観したものであるに違いない。ある意味、まねのできない心境なのだろう。敵わないなあ。
もう一つ違うエピソードを思い出した。あの開高 健の名言として知られている言葉である、「明日、世界が滅びるとしても、今日、あなたはリンゴの木を植える」だ。オリジナルは宗教改革で有名なマルティン・ルターの言葉らしい。ルターは「今日、私はリンゴの木を植える」と言ったらしいが、開高先生は「あなたは」として使っていたらしい。何れにしても、何が起きようと慌てず騒がず、今日できることを粛々とすることが大切だという意味であろう。先の小説の老人の心境も、わが家の老人の心境もそういうことなのかもしれない。「今日も、梨の木を植える」ということか。はたして僕は植えるものを持っているのかと考えさせられる…。
なにせ、先だって富山駅からのバスツアーで姫路城まで行ってきたくらいなのだから。帰ってから聞いたところによれば、姫路城に加えて日本のマチュピチュと言われている天空の城、竹田城跡まで行ったとのこと。僕も一度訪ねたことがあるが、駐車場から結構な距離を歩かなければならないうえに、登り坂がきついコースである。よく登れたものだと驚いてしまった。「登りが大変だっただろう?」と聞いたら「同行者に迷惑をかけられないから頑張って先頭を歩いた」とのこと。恐るべし91歳と10ヶ月。その父が、今年の春も梨の苗木を植えた。背丈が1m位しかないような苗木である。本人の弁によれば、5年くらいで一定量の収穫はできるものの人工授粉の花粉を取るための木にしたいので大きな木に育てたいのだと言う。いったい何歳になるまで梨の栽培を続けようと思っているのだろうか。まさに恐るべき老農夫である。
ギリシャ文学を代表する作家であるニコス・カザンザキスの小説に「その男ゾルバ」という作品がある。その小説の中で、主人公ゾルバが90歳になってもアーモンドの苗木を植え続ける老人に邂逅する場面がある。老人は永遠に生き続けるかのように仕事に精を出すのだ。それに対してゾルバはいつ死ぬか分からないと言わんばかりに遊びに精を出す。どちらの生き方が正しかったのかと作家は問うのである。老人はまれに見る楽天家だ。アーモンドは実がなるまでに5年ほどかかるのだから。だが一度植えれば50年先まで毎年実をつける。アーモンドは次世代に対する投資なのである。いや、それよりも苗木を植えるという作業自体が老人にとっての生きがいなのであり、その作業があるからこそ老人に明日が来るのである。
わが家の老人も小説の老人と同じように苗木を植える。永遠に生き続けるのだと信じているかのように。そして不肖の息子はゾルバのように遊びに精を出す。「その男ゾルバ」の作中のエピソードそのものじゃないか。農業後継者でありながら、高齢である父の作業を手伝うこともなく毎日の繁忙さに追われているわが身の身勝手さを思うと身の置き所がない。そんな僕の存在など一顧だにすることなく黙々と農作業に精を出し続ける父の心中を正確におしはかることは出来ないけれど、小説の中の老人のように穏やかで達観したものであるに違いない。ある意味、まねのできない心境なのだろう。敵わないなあ。
もう一つ違うエピソードを思い出した。あの開高 健の名言として知られている言葉である、「明日、世界が滅びるとしても、今日、あなたはリンゴの木を植える」だ。オリジナルは宗教改革で有名なマルティン・ルターの言葉らしい。ルターは「今日、私はリンゴの木を植える」と言ったらしいが、開高先生は「あなたは」として使っていたらしい。何れにしても、何が起きようと慌てず騒がず、今日できることを粛々とすることが大切だという意味であろう。先の小説の老人の心境も、わが家の老人の心境もそういうことなのかもしれない。「今日も、梨の木を植える」ということか。はたして僕は植えるものを持っているのかと考えさせられる…。