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ありがとうの日々

森 雅志 2016.07.05
 論語に「吾日に吾が身を三省す」という言葉がある。自分は毎日、自分自身の行動について何回も反省をしているというもの。はたしてその三つとは、人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか、である。(人の相談相手になって、真心を尽くしていたか。友達と付き合って嘘をついていないか。十分に理解していないことを教えたりしていないか。)
 また、旧海軍には「海軍五省」というものがあったらしい。三省より二つ多いけれど、基本的には考え方は同じ。人間は易きに流されがちな生き物だから、一日一日の行動を反省する手がかりを持とうということだ。そうやって自分を律していくことが大事なのだ。そうは言っても、言うは易し行うは難しとはまさにこのこと。はたしてわが身は如何がなものか。自分の言動を毎日振り返り、明日への糧とすることの大切さは理解できても、日々三省できているとはとても言えないのが実態であろう。考えさせられてしまう。 
 それでも、毎日何度もありがとうと口にすることはできる。他の人はともかく、僕自身は若い頃から頻繁にありがとうと口にする生き方をしてきた。もちろん数えたことなどないけれど、乱暴に言ってしまうと一日に200回くらいはありがとうと言っていると思う。注文したコーヒーや料理をサーブしてくれたお嬢さんにありがとう。タクシーを降りるときにもありがとう。ゴルフ場のキャディーさんにもクラブを渡してくれたり、ボールを拭いてくれたりする都度ありがとう。宴会のときにビールを注いでくれたコンパニオンのお嬢さんにもありがとう。お店で買った品物を渡してくれた店員さんにありがとう。コピーを取ってくれた職員にもありがとう。とにかくどんな時にもありがとうと口にしている。もちろん、必ずしも深い感謝の念から口にしているケースばかりではない。単なる挨拶代わりであったり、雰囲気を和らげるためであったりしている。それでも何かをしてもらったのだから自然にありがとうという言葉が出てくるのである。それでいいのだと思う。日に吾が身を三省することはできなくても、日に200感謝はできているのではなかろうか。自慢げに言うことではないけれど…。
 最近はもっぱら「ありがとう」という言い方になっているけれど、数年前までは「ありがとうございます」と言う機会が多かったと思う。年々、この丁寧な言い方が減少し、簡単に「ありがとう」ですましてしまうことが増えている。それは僕の加齢に起因しているのだ。最近は謝意を伝える相手がほとんど年下の人になっているということだ。数年前にこのことに気づいた日のことが忘れられない。市役所の職員のほとんどが年下なのだから、役所の中で「ありがとうございます」と言わなくなったことに気付いて一人で笑い出していたっけ。(思えば馬齢を重ねたものだなあ。)それでも年長者だと思しき人にはしっかりと丁寧に謝意を伝えることとしている。
そんな僕だが、最近の若者の態度で気になることがある。明らかに年上の人に対して敬語を用いなかったり、丁寧な応対をしなかったりする若者が多いことだ。自分がお客なのだから上位に位置していると勘違いしている人が多い。困った時代になったものだ。廃れてしまった長幼の序の回復が難しくても、せめて、他者に対する感謝の気持ちを持つことが出来ないものかと思う。そんな社会にしたいという思いを込めて、これからも「ありがとう」にこだわって生きていきたいものだ。