過去のエッセイ→ Essay Back Number
今さら? 城址公園のご紹介
森 雅志 2017.07.05
城址公園の紹介をしたい。え?何を今さらと思われたかな? でも城址公園はここ数年の間に新しい整備がいろいろと進み、そのおもむきが大きく変わってきた。そのことを伝えたくてこの稿を書こうとした次第。
富山藩の政治の中心だった富山城は明治維新による影響で明治6年に廃城となった。やがて解体が進み堀は埋め立てられ石垣も撤去されていった。敷地は順次払い下げられ、新たな道路もでき街づくりが進められた。それでも城址はずっと近代富山の中心ポイントであった。しかしその城址を含む中心市街地は空襲によって全てが灰になってしまったのだった。焦土と化した富山市は再建の槌音を響かせながら昭和27年4月28日の平和条約発効の日を迎えた。この日は米軍の占領が終わり、わが国が完全なる主権と独立を回復した日である。当時の富川市長は復興のシンボルとして富山産業大博覧会の開催を決定し、関連施設として公会堂と富山城天守閣を建設したのだ。江戸期の富山城には天守閣がなかったにもかかわらず、米軍からの解放を喜び、日本人の心を再生させるシンボルとして天守閣を作ったのである。何という英断。我々は大和心の象徴として天守閣を位置付けた富川市長の思いを忘れてはならないと思う。
その後、戦災復興都市計画による道路の整備などによって堀などが次々と埋められ、現在の姿になっていった。そして佐藤記念美術館や野外ステージなど様々な機能が多すぎるくらいに付加され、本来の城址の姿が変容することとなった。そこで、平成10年頃より見直しに着手し、歴史的な景観を取り戻すべく様々な整備が進められてきた。
その一つが芝生広場ゾーンの整備であり、また日本庭園の新設である。特に日本庭園については知らない人が多いと思うけれど、ぜひとも足を運んでほしいものだ。さらに、故佐藤助九郎氏から寄贈を受けた茶室碌々亭が平成26年に佐藤記念美術館隣接地に移築された。そして平成28年には、市内の茶人有志が組織した「茶室碌々亭移築事業実行委員会」によって茶会等ができる増築棟である座敷が寄付された。これを受け、市では茶室碌々亭と増築棟の総称を「本丸亭」とし、茶道をはじめ香道や華道、句会など広く市民の利用に供し、伝統文化に親しむ場として貸し出しているのだ。富山市には中心部に一定規模のお茶会などをする空間が無かっただけに寄付者の皆様には感謝にたえない。佐藤記念美術館はもともと茶室柳汀庵や茶室助庵などを有しており、結果としてこのエリアには江戸時代から平成までのお茶に関する建築が集積することとなった。この集積は国内でも稀有であり価値あるものである。
さて、あとはこの公園をどう使っていくかということだ。なにせ城址である。築城されて以来ずっと街の中心スポットであり続けた場所だ。いつも人が集い、歩き、くつろぐ、そんなセントラルパークのような空間になれば良いと思う。そのための仕掛けを2件紹介したい。一つは国際会議場のコンパクト・デリ・トヤマに置いてあるピクニック・ラグというものだ。小さく畳めるレジャーシートの一種で無料貸し出しをしている。芝生広場でこれを使うなどして家族でのんびりと楽しんでほしいと思う。もう一つが縦列で二人乗りができるタンデム自転車である。市民プラザで無料貸し出しをしているのだが、公道も城址公園の中も乗れるので利用してほしいと思う。
多くの市民にとって城址公園は若い頃から何度も足を運んだ場所に違いない。でもここにきて昔と違う顔を見せるようになってきたのでぜひ多くの方に再訪して欲しいと思う。
(注 以前に書いた文を一部引用した)
富山藩の政治の中心だった富山城は明治維新による影響で明治6年に廃城となった。やがて解体が進み堀は埋め立てられ石垣も撤去されていった。敷地は順次払い下げられ、新たな道路もでき街づくりが進められた。それでも城址はずっと近代富山の中心ポイントであった。しかしその城址を含む中心市街地は空襲によって全てが灰になってしまったのだった。焦土と化した富山市は再建の槌音を響かせながら昭和27年4月28日の平和条約発効の日を迎えた。この日は米軍の占領が終わり、わが国が完全なる主権と独立を回復した日である。当時の富川市長は復興のシンボルとして富山産業大博覧会の開催を決定し、関連施設として公会堂と富山城天守閣を建設したのだ。江戸期の富山城には天守閣がなかったにもかかわらず、米軍からの解放を喜び、日本人の心を再生させるシンボルとして天守閣を作ったのである。何という英断。我々は大和心の象徴として天守閣を位置付けた富川市長の思いを忘れてはならないと思う。
その後、戦災復興都市計画による道路の整備などによって堀などが次々と埋められ、現在の姿になっていった。そして佐藤記念美術館や野外ステージなど様々な機能が多すぎるくらいに付加され、本来の城址の姿が変容することとなった。そこで、平成10年頃より見直しに着手し、歴史的な景観を取り戻すべく様々な整備が進められてきた。
その一つが芝生広場ゾーンの整備であり、また日本庭園の新設である。特に日本庭園については知らない人が多いと思うけれど、ぜひとも足を運んでほしいものだ。さらに、故佐藤助九郎氏から寄贈を受けた茶室碌々亭が平成26年に佐藤記念美術館隣接地に移築された。そして平成28年には、市内の茶人有志が組織した「茶室碌々亭移築事業実行委員会」によって茶会等ができる増築棟である座敷が寄付された。これを受け、市では茶室碌々亭と増築棟の総称を「本丸亭」とし、茶道をはじめ香道や華道、句会など広く市民の利用に供し、伝統文化に親しむ場として貸し出しているのだ。富山市には中心部に一定規模のお茶会などをする空間が無かっただけに寄付者の皆様には感謝にたえない。佐藤記念美術館はもともと茶室柳汀庵や茶室助庵などを有しており、結果としてこのエリアには江戸時代から平成までのお茶に関する建築が集積することとなった。この集積は国内でも稀有であり価値あるものである。
さて、あとはこの公園をどう使っていくかということだ。なにせ城址である。築城されて以来ずっと街の中心スポットであり続けた場所だ。いつも人が集い、歩き、くつろぐ、そんなセントラルパークのような空間になれば良いと思う。そのための仕掛けを2件紹介したい。一つは国際会議場のコンパクト・デリ・トヤマに置いてあるピクニック・ラグというものだ。小さく畳めるレジャーシートの一種で無料貸し出しをしている。芝生広場でこれを使うなどして家族でのんびりと楽しんでほしいと思う。もう一つが縦列で二人乗りができるタンデム自転車である。市民プラザで無料貸し出しをしているのだが、公道も城址公園の中も乗れるので利用してほしいと思う。
多くの市民にとって城址公園は若い頃から何度も足を運んだ場所に違いない。でもここにきて昔と違う顔を見せるようになってきたのでぜひ多くの方に再訪して欲しいと思う。
(注 以前に書いた文を一部引用した)