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移ろう季節の中で

森 雅志 2017.11.05
 日本人は古来、詩歌の世界において季節の移ろいということを意識してきた。だから俳句において季語が用いられている。高浜虚子は季語がもたらす四季の連想をとりわけ重要視していた。その流れを受けて俳句の世界では現在も季語が生まれており、歳時記の収録語も増えている。
 日本人はまた、一人ひとりの心の中にある季節感を日々の生活の中で具体的に反映してもきた。生活用品のどこかの要素を変えることで季節という節目を作ってきたのだ。
 ところが最近の僕らは、毎日の暮らしの中で季節感を大事にするという意識が薄れてきているのではないのかと思う。はたしてそれでいいのだろうか。生活様式が変わり、忙しい暮らしとなったとしても、例えば紅葉の色づきに先んじて秋らしい装いに換えるという感性を大切にしたいと思う。無季の俳句ばかりの世界にしてはいけないと思うのだが…。
 大げさに書き過ぎてしまったな。難しいことを言いたい訳じゃないのだ。季節の変わり目には面倒くさがらずに廊下の絵を取り換えたり、床の間の置物を工夫したりしたいものだと言いたいのだ。歳時記をそばに置いていなくても、自分でできる範囲で季節感を楽しみたいということ。
 過日、夏用の簀戸を襖障子に取り換えた。毎年の作業だけれどなかなか大変なのである。簀戸は軽いから取り外すのも運ぶのも難しくはないのだが、雪見障子はガラスもあって重くて大変。そのうえに左右や表裏を間違えると敷居と鴨居の間に入らないことが起きる。梅雨前に交換した時に順序良く仕舞ったはずなのに秋にはその順序をすっかり忘れてしまっている。その結果、汗みどろで取り組む大仕事になってしまう。何とかやり終えると、今度は座布団も取り換えなきゃと気付く。仏間と座敷の冬用の座布団を出してきて夏用のものを箱に入れて仕舞う。この時点で、部屋を箒で掃かなくてはならないことに気付き、結果的には半日仕事の大掃除状態になってしまう。でもまあ、取り換えの終わった部屋を眺めてみるとすっきりとして気持ちが良い。清潔感のある静かな空間が出来上がっている。ああ、秋だなと思わされる。こうやってまた一年が過ぎていくのだ。
 襖障子の取り換えが済んだ後に待っているのが布団の交換である。夏用の布団を冬用のものに取り換える、それだけのことなのだけれど時間がかかって大変な作業となる。布団カバーの取り換えは他にもっと便利な方法が開発されないかと思わせる大仕事だ。毎回悪戦苦闘することとなる。交換の際に出てくる綿ぼこりや糸くずみたいなものはどこから生まれてくるのかと思う。おかげで作業をした部屋は埃だらけになってしまう。しかたなく掃除機の登場となり、またまた大掃除状態になる。考えてみると季節の移ろいにあわせて掃除をさせるためにこういった作業が仕組まれているのかも知れないなあ。でも、畳の上に敷かれた冬用の暖かそうな布団を目にするとさっぱりとした気分になる。こちらもまたいよいよ秋だなと思わせてくれる。
 もちろん衣替えをするし、玄関の飾り物を取り換えたりもする。僕の場合、ある人から頂いた戸出善信画伯の「パリの四季」というリトグラフの絵を季節ごとに取り換えることが季節の移ろいを感じる楽しみの一つになっている。生活空間の気密化が進み、一年中同じような気温の中で暮らす時代になったけれど、絵を掛けかえるという、風物詩のような作業は失くしてはならないと思う。生活の中の季節感なのだから。
 取り換えたばかりの布団に寝そべってみると、虫の声が大きく聞こえる。秋深し…か。