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靴音物語

森 雅志 2018.05.05
 数ヶ月前、ある大きな表彰式に出席した際のことである。僕は来賓の一人としてステージ上のひな壇にいた。何人目かの受賞者が女性であり、名前を呼ばれた彼女は少し誇らしげな表情を浮かべながらステージに向かって歩いてきた。姿勢を正しゆっくりと階段を上りステージ上に立った。やがてステージ中央に向かい歩き出した時に響いた大きな靴音に僕は驚いてしまった。表彰式というものはいささかなりとも厳粛さを伴っている。したがって会場は静けさを帯びる。その中を中程度の高さのヒールの靴で勢いよく歩いたために耳障りな靴音が響いたのであった。僕は思わず隣の人と顔を見合わせていた。おそらく彼女は自らの靴音がもたらした違和感に気付いていなかったのだろう。なんら悪びれるところなく、また靴音を鳴らして自席に戻っていったのだから。靴音に対して注意をはらうことの大切さを改めて思わされたエピソードであった。
 靴音に関しては忘れられない思い出がある。高校二年生の時だったと思う。当時僕は呉羽駅から富山駅まで北陸線に乗り通学していた。ある冬の日に電車の遅延により遅刻してしまった。すでに授業が始まっていた教室に入り、駅でもらった遅延証明書を教師に渡すと当然のようにして自席に向かった。その時にその教師から靴音がうるさいと大きな声で叱責されたのであった。謝った後で、背を丸めながら静かに歩いて自席に着いたのだが、叱責の本当の意味を考え、恥ずかしさに身を固くしていた。たしかに靴音がうるさかったのだろう、しかしそれ以上に僕の態度が傲岸不遜だったということが問題なのだと気付き、深く反省したのだった。電車の遅延のせいとは言え当たり前のように入室した態度が問題だったのだ。その傲岸さが靴音に表れたということだ。爾来、この時の反省を忘れない。青春時代の苦い一コマである。
 もとより、青空の下で爽やかな風を感じつつ靴音を響かせ顔を上げながら明日に向かって駆けていく、そんな時間は大切だ。隊列行進の時などに全員の靴音が揃いリズミカルに響く光景も気持ちが良い。あるいはヒッチコックやルイ・マル監督の作品などでは靴音が実に効果的に使われている。女性が颯爽と歩くときのかすかに聞こえるヒールの音も気持ちが良い。それでも靴音に注意が必要な場面がたくさんある。そのことを忘れないで自分が発している靴音が周囲に不快感を与えていないかを意識しながら暮らすことが大切だと言いたいのである。
 病院の中を靴音高く歩く人はいない。下駄を履いて美術館に来る人はいない。コンサート・ホールや映画館でブーツの音を響かせて歩く人はいない。闊歩するかのようにして焼香する人はいない。誰もが状況にあわせて配慮しているからである。その日の予定によっては、朝に家を出るときから靴の選択で気を使うこともあれば、うっかり選択ミスをしたときには歩き方に気を使い、なるべく音が出ないようにする。僕だけじゃなく多くの人はそうやって暮らしているものだ。ところが時々高校時代の僕のような人に出会うことがある。そんな時、僕は若き日の未熟さを思い出し赤面してしまう。そしてその人が何とか周囲への配慮に気付いてくれないものかと願っているのだ。
そうなのだ。わざと靴音を響かせてうるさくしようなどと考える人はいない。気付かないだけなのだろう。責めることではない。でもお互いに配慮することならできる。気をつけることとしましょう。