3月弥生だ。数日前には随分と暖かい日和が続き、春近しどころか春本番という感じがしたのだけれども今日はまた寒さが戻ってしまった。でもまあこの時季はこうやって暖かくなっていくのだから、そろそろ春物に衣装替えをしますかな。4日の早朝に玄関に飾っていたお雛様の屏風と、男雛女雛の人形をかたずけた。空いた場所に桜の絵を飾る。その瞬間にわが家に春がやってきたような気がした。その後、廊下に掛けてある戸出喜信画伯の「バリの冬」のリトグラフを「パリの春」に取り換えた。もはや春真っ盛りという感じ。三寒四温のリズムで春めいてくるこの時季の良さを1年ぶりに気付かされた。季節が移ろい自分はまた老いを重ねるということか。 先々週鎌倉に行く機会があったのだが、街のあちこちで梅の花が咲き誇っていた。その残像が数日たっても残っていたからか、理由もなくわが家の白梅の木を見てみたくなり室内から障子を開けてみた。そこで目にしたのは太い枝まで何本も折れている無残な姿の老木であった。思わず「あっ!」と声をあげていた。わが家をこの地に建ててから35年くらいになると思う。その間ずっと庭の隅で白い花を咲かせ、多過ぎるくらいの実を落としてくれた梅の木がここまで大雪に痛めつけられていたとは知らなかった。梅の木自身の老化も原因しているのかもしれないけれど、やはり今冬の大雪が作用したのだろう。おそらく積雪量以上に重い雪だったのだな。たしかに除雪が例年の雪よりも大変であった。積雪深や積雪量では測れない雪の重さという要素があるのだと思い知らされた。わが家の梅の木はわが家の庭に移植されて以来初めてその枝をズタズタにされてしまうという形で今冬の雪の重さを教えてくれた。 今朝、恐る恐る障子をあけてみるとみすぼらしい形になってしまいながらも健気な老白梅はチョットだけ花芽を緩めてくれていた。この白梅の芽のように雪にいじめられてもゆっくりとやってくる春もあるのである。急がない春。じっくりと歩めと言う意味か。老白梅の木の無残な姿を見ながら考えている。健気に緩もうとしている白梅の花芽に学びながら生きて行こうと。暖かさに身を置きながらゆっくりとやってゆくさ。もう若くはないのだから。弥生、春。暖房をした部屋で本稿を書いている身が悲しい。
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