平成20年9月30日
 昨日9月議会が終わった。最終日は委員会に付託された各議案について委員長報告があり、それについての反対、賛成討論が交わされた後で採決ということになる。いつの議会であっても、当局の提案に対する各議員の立場や意見の相違から多様な意見の表明や見解が示されることは当然である。したがって提案されている各議案ごとに賛成する者があり、また反対する者が出ることは当然であり、その上で採決という形で議会の結論が示されることになる。提案している立場としては全会一致で可決してもらいたい気持ちがあるものの、反対者の立場や意見について全否定するということはない。だから何時の議会においても、「自分とは見解が違うけれども、そういう意見の人もいるのだろうなぁ」などと考えながら反対討論を聞いている。したがって議案に反対されても特段腹も立たないのである。
 (したがって腹立ちまぎれにこの文を書いているのではないことを確認しておきたい。もっともどう書いても誤解されそうではあるのだけれども…。)

 では何を言いたいのか。それは昨日のある議員の反対討論について、かって議会に身を置いていた一人として疑問を感じたということである。

 システム改修について、当初にシステム開発を受注した業者と随意契約することは多い。競争入札をする事が原則的ではあるものの、改修作業や改修後の運用に最も信頼が置けるのは当初開発した業者であるし、著作権の問題も絡む。そういった総合的な判断から随意契約するケースは、システム改修に限らず行政が発注する様々な契約に見られるものなのだ。もとよりその随意契約の全体としての妥当性は図られなくてはならないことは当然である。
 さて、その随意契約の契約金額の妥当性の確認が不十分だとの理由で予算案件に反対した議員の判断は、先にも述べたとおりその議員の考え方だから僕も尊重するものである。しかし、システム改修の随意契約に係る議案というのは過去にも毎年のように提案され可決されてきている。当該議員は今までは一度も前記の理由により反対したことはなかったはずである。今回唐突にこのことについて疑問を投げかけているのだ。僕が引っかかるのはこの点にある。
 つまり、当該議員が言うように議会のチェック機能として随意契約に異議を言うのなら、今までのあなたのチェック機能は働いていなかったのかと言いたいのだ。今までは同種の議案に賛成してきたことと今回の反対との整合はどのように図られているのか。言葉が過ぎるかもしれないが、今までは良く考えずに賛成してきたけれど、今回初めて疑問を感じたということなのだとしたら、従前の自身のチェック機能のありようが不充分でしたと自白していることになるのではないのか。
 議員は原則として自らの投票行動や政策判断に一貫性が求められるものだと思う。場当たり的であってはいけない。仮に事情の変更や状況の変化で判断に変化があるとしても、その変化についての論理的な整理があるべきだと思うのだが。
 くどいようだが、議案に反対したことを批判しているのではない。それはそれで尊重するのだ。僕が指摘したいのは自らの判断の変化についても述べるべきだったし、いかなる理由で考えが変わるに至ったのかを明らかにすべきではなかったのかということである。もしも僕がこの議員の立場だとしたら、少なくとも会議録が永遠に残る本会議場で反対討論はしない。委員会などにおいて、従前は契約金額についての議論が不充分だったが今後はもっと精査すべきではないのかといった観点から議論することになろう。ついでに言えば、予算案に反対することは納得できないことを含めて全ての予算に反対したことになるから、こういった場合には納得できない点について修正する修正動議を出すべきではないかと思う。もとより僕が言うべきことではなく、一人ひとりの議員が自らの議会活動に責任を持てば良いことではあるが。
 重ねて言うが決して予算の提案者の立場で反論したのではない。かって議会人であった一人として、議会活動のあり方について私見を述べてみただけなので悪しからず。
平成20年09月13日
 米粉加工販売会社「三笠フーズ」の汚染米転売問題はあまりにひどい。糊などの原料として買い入れしながら、食用や酒造用に販売していた訳で、人体の健康被害に直結しかけない重大な犯罪だと思う。介護施設や保育園で実際に消費されたとの報道もあり、毎日あきれながら新聞を読んでいた。ところがアサヒビールが販売した芋焼酎の原料に混入していたことから自主回収するという報道に触れて驚いた。何故なら、回収の対象となる「芋焼酎さつま司」をここ数日おいしく飲んでいたからである。さっそくラベルやビンに記載されたロット番号や製造時期を確認したところ、まさに対象となる焼酎だったのである。全部で12本の当該焼酎をある方からいただいたのだが、そのうちの3本をすでに僕一人で飲み終えているのである。飲んでしまったものはしょうがないけれど残りの9本はさすがに飲む気がしないなあ。よそ事だと思っていた事件の当事者になるとは驚いたが、そんなこともあるということか。そんな人はいないと思うけれど希望があればお譲りしますよ。
平成20年09月02日
 昨日から「おはら風の盆」がはじまった。例年どおり、オープニングで挨拶をし、保存会の会長宅などで踊りを鑑賞しながら楽しい酒をいただいた。そこまでは良かったのだが、ほろ酔い気分を吹き飛ばすように首相辞任という大ニュースが入ってきて驚いた。酔った勢いで福田総理を「甲斐性なし」呼ばわりしながらテレビをつけたまま寝入っていた。
 今朝から新聞やテレビを通して様々な報道に触れている。その上で、かつ酒が抜けた状態で申し上げるが、やっぱり一言で言えば「甲斐性なし」なんだと思う。富山弁で言えば「カイショナシ」かな。昨年の安倍総理辞任のときにも同じような印象を持ったが、総理の器以前に、人間が小粒だということだろう。臨時国会を召集してから止めるくらいなら、あるいは内閣改造をして間がないのに止めるくらいなら、ほかに止め時がなかったのかと言いたい。そもそも投げ出すくらいなら最初から受けるなと言いたい。命を賭してもの覚悟がないとしたら、責任あるポストにつくべきではあるまい。総理を辞めるだけではなく、国会議員も直ちに辞めるべきではないのか。あきれて腹も立たないが、止めたいと言って止められる人が羨ましい。我々は刀が折れても戦う覚悟で日々頑張っているのだ。責任放棄や敵前逃亡は絶対にしない。それが公職にあるものの使命だと思うからである。
 今年の1月に「漂流の民」というタイトルで書いたエッセイで、心棒をなくした日本人が漂流しているのが今の時代であると書いたが、日本はいよいよ大漂流時代に入るのだろうか。総理大臣が心棒も辛抱もなくしているのだからなぁ。なにやら漠然とした不安におそわれる。