平成20年12月22日
このコーナーをはじめ、いろいろな機会に書きためた雑文をまとめてエッセイ集として出版することとなった。4年まえに出版した「森のひとりごと」の続編である。もとより誰かに感動を与えるとか、生き方の指針になるとかといった質の文章ではない。折に触れての思いを乱暴に書きなぐっただけのものだ。それでも、奇特な方がいて手にしていただければありがたい。26日に書店に並ぶようである。ふざけたタイトルで「こんども森のひとりごと」というもの。実は僕自身もまだ製本されたものを手にしていないのだが、楽しみに26日を待っている。
さて、先日このコーナーで、中学2年の時の担任の先生から僕が当時書いた作文を貰ったことを書いた。クラスでの意見発表のための文章らしい。稚拙な文章だが当時のことがしのばれて懐かしいとも書いたところ、何人かの方からその文章を見せて欲しいとのメールが届いた。躊躇はあるものの恥を忍んで披露したい。少年の日の僕の思いです。
「力づよく前進を!!」
2年8組 森 雅志
「少年よ、大志をいだけ」と、ぼく達、日本の未来に力強く生きてほしいとさとされた、当時札幌農学校のクラーク博士の言葉を思いだします。
青空に美しく、気高くひるがえるあの日の丸の旗……、どこまでも、どこまでも、まっすぐ伸びているけいよう塔。皆さん。ぼく達、呉中生はもっと胸をはって歩こうではありませんか。
ホールを歩いていると紙がおちている。だけどだれもひろおうとしない。
人ごみの中でだれかの足をふんでしまった。だけどだれもあやまろうとしない。
授業中、先生の質問の答えが分かっている。だけど答えようとしない。
こういう経験はたいていの人にあると思います。これはどういうことでしょうか。ホールに紙がおちていたらだれでもひろわなくちゃならないと思うでしょう。だけどだれもひろおうとしない。なぜでしょう。まわりの者はだれもひろおうとしないのに自分がひろっちゃへんじゃないか……という考えが先に立つからですか。学校の帰り道 人に道を聞かれても答えようとしなかったり、バスの中でおばあさんが前に立っているのにかわってあげようとしない。
月旅行ができるかというこの宇宙時代になぜ 今だにこんな小さな、小さなことが完全にできないのでしょう。
まわりが気にになったり、失敗をおそれたり。自分がやらなくても誰かがやってくれる。結局 自分はなにもやらない。
皆さん!!呉中のだれもがそのように考えたら この素晴らしい校舎の中は一体どうなるのでしょうか。やがて そんなことが慣れっこになってしまったらどうでしょう。考えただけでもおそろしいことです。
級の中で「くさったかんづめ」にならないでおこう……と堂々と意見を述べた友がいます。僕はその言葉がどうしても胸につかえてなりません。外見だけの呉中を…… 中身のない呉中を…… 外見だけの僕たちを 中身のない僕たちを 悲しんだのだと思います。
どうです 皆さん。僕たちは勇気を出しそびれてはいないでしょうか。
呉中生の誇りを持って、堂々とやることを忘れてはいないでしょうか。自信をもつことを忘れてはいないでしょうか。まわりが気になるということはありません。失敗をおそれるということはありません。もっと胸をはって紙くずをひろったり、すなおにあやまったり、堂々と発表しようではありませんか。
その態度、その態度こそがやがて僕たちの未来に続くものだと信じて止みません。
みなさん、くさったかんづめではいけない。一日も早く、いいえ今から堂々と、そうですあのアフリカの象の大群の如く、力強く、砂煙をあげて地ひびきをたてて、まっしぐらに前進しようではありませんか。
さて、先日このコーナーで、中学2年の時の担任の先生から僕が当時書いた作文を貰ったことを書いた。クラスでの意見発表のための文章らしい。稚拙な文章だが当時のことがしのばれて懐かしいとも書いたところ、何人かの方からその文章を見せて欲しいとのメールが届いた。躊躇はあるものの恥を忍んで披露したい。少年の日の僕の思いです。
「力づよく前進を!!」
2年8組 森 雅志
「少年よ、大志をいだけ」と、ぼく達、日本の未来に力強く生きてほしいとさとされた、当時札幌農学校のクラーク博士の言葉を思いだします。
青空に美しく、気高くひるがえるあの日の丸の旗……、どこまでも、どこまでも、まっすぐ伸びているけいよう塔。皆さん。ぼく達、呉中生はもっと胸をはって歩こうではありませんか。
ホールを歩いていると紙がおちている。だけどだれもひろおうとしない。
人ごみの中でだれかの足をふんでしまった。だけどだれもあやまろうとしない。
授業中、先生の質問の答えが分かっている。だけど答えようとしない。
こういう経験はたいていの人にあると思います。これはどういうことでしょうか。ホールに紙がおちていたらだれでもひろわなくちゃならないと思うでしょう。だけどだれもひろおうとしない。なぜでしょう。まわりの者はだれもひろおうとしないのに自分がひろっちゃへんじゃないか……という考えが先に立つからですか。学校の帰り道 人に道を聞かれても答えようとしなかったり、バスの中でおばあさんが前に立っているのにかわってあげようとしない。
月旅行ができるかというこの宇宙時代になぜ 今だにこんな小さな、小さなことが完全にできないのでしょう。
まわりが気にになったり、失敗をおそれたり。自分がやらなくても誰かがやってくれる。結局 自分はなにもやらない。
皆さん!!呉中のだれもがそのように考えたら この素晴らしい校舎の中は一体どうなるのでしょうか。やがて そんなことが慣れっこになってしまったらどうでしょう。考えただけでもおそろしいことです。
級の中で「くさったかんづめ」にならないでおこう……と堂々と意見を述べた友がいます。僕はその言葉がどうしても胸につかえてなりません。外見だけの呉中を…… 中身のない呉中を…… 外見だけの僕たちを 中身のない僕たちを 悲しんだのだと思います。
どうです 皆さん。僕たちは勇気を出しそびれてはいないでしょうか。
呉中生の誇りを持って、堂々とやることを忘れてはいないでしょうか。自信をもつことを忘れてはいないでしょうか。まわりが気になるということはありません。失敗をおそれるということはありません。もっと胸をはって紙くずをひろったり、すなおにあやまったり、堂々と発表しようではありませんか。
その態度、その態度こそがやがて僕たちの未来に続くものだと信じて止みません。
みなさん、くさったかんづめではいけない。一日も早く、いいえ今から堂々と、そうですあのアフリカの象の大群の如く、力強く、砂煙をあげて地ひびきをたてて、まっしぐらに前進しようではありませんか。
平成20年12月12日
先日、中学の同窓会があり参加した。僕は今も呉羽に住んでいるのだから日頃から顔を合わせている同級生も多い。そのうえに何年か前にも同窓会があったので何十年ぶりの再会だという人はいなかったと思う。それでも懐かしい顔に出会い、話がはずむ楽しい会であった。その際に、出席されていた中学二年生の時の担任だった先生から当時僕が書いた作文をわたされて驚いてしまった。恩師というのはありがたいもので、書いた本人がとっくに忘れてしまった文章を保存していらしたのである。教師という職業の深さを感じさせられた。何年の時が過ぎようとも自分が担任した子どもの記憶を大事にされている。僕にはとても真似ができない。十代の頃、教師になりたいと思っていたことがあったが、とても務まらないことが良く分かった。
さっそく読んでみた。さすがに稚拙な文章だ。当時の僕がそうであったように生意気な物言いが恥ずかしい。この文を書いたこともその内容もまったく記憶にないが、不思議と懐かしさを感じる。おかしなものだなぁ…。あの頃の教室の様子や同級生の顔が浮かんでくる。青春と呼ぶには早すぎる、少年の僕がそこにいる。13歳の頃。ティーンズ・ライフの始まりだ。バリカンで坊主刈りにしていたっけ。背伸びして三島由紀夫を読んでいた。思えばあの頃から素直じゃなかったのだなあ。おかげで40年後にはこんないい加減な男の出来上がりだ。やり直しはきかないよね。
さっそく読んでみた。さすがに稚拙な文章だ。当時の僕がそうであったように生意気な物言いが恥ずかしい。この文を書いたこともその内容もまったく記憶にないが、不思議と懐かしさを感じる。おかしなものだなぁ…。あの頃の教室の様子や同級生の顔が浮かんでくる。青春と呼ぶには早すぎる、少年の僕がそこにいる。13歳の頃。ティーンズ・ライフの始まりだ。バリカンで坊主刈りにしていたっけ。背伸びして三島由紀夫を読んでいた。思えばあの頃から素直じゃなかったのだなあ。おかげで40年後にはこんないい加減な男の出来上がりだ。やり直しはきかないよね。
平成20年12月8日
今年のノーベル物理学賞を受賞した益川敏英氏の授賞式を前にしたスウェーデン王立科学アカデミーでの記者会見が面白かった。「I SPEAK JAPANESE 0NLY」と断ってから日本語で話を続けている様子にさわやかさを感じたからである。さらに驚いたことは、今回の授賞式のためにスウェーデンに行ったことが初めての外遊であるということだ。ノーベル賞を受賞する大学者が英語をまったく話すことができず、かつ外国に行ったことがないということは、一度も外国での学会に参加したことがないということだ。もっとも物理学の専門領域に関する英語の論文は当然のこととして読みこなしているに違いない。そうだとしても国際会議に出たことのない学者がノーベル賞とはねー。理論物理学の世界における日本の水準がいかに高いかということだろう。あっぱれなことだと思う。
ところで、21世紀になってからの日本人のノーベル賞受賞者の数がすごい。化学賞の野依良治氏、物理学賞の小柴昌俊氏、化学賞の田中耕一氏、そして今回受賞の物理学賞南部陽一郎氏、小林誠氏、益川敏英氏、さらには化学賞の下村脩氏であり、全部で7名にのぼる。この数はアメリカに次いで第2位なのだそうだ。すごいことだと思うし、誇らしくも思う。
日本の科学の世界では研究者に充分な研究費が提供されないということが昔から指摘されている。充分な研究環境を用意しないと頭脳流出が止まらないことになり、科学技術立国を図らなくてはならないわが国の将来を暗くするとも言われてきた。そんなわが国の研究現場から誇るべき研究者を輩出することができている理由や背景はどうなっているのかを知りたいものだと思う。もちろんノーベル賞が全てではない。言いたいことは、研究費などが潤沢でない中でも優れた業績を上げている多くの研究者を支えているものは何なのかを考えてみる必要があるのではないかということだ。
益川先生は「若者を育てる原動力はあこがれだ。」と話された。あこがれを持ち、それを育て、目標に向かって黙々と前進することが肝要だということか。あるいは、幾つになっても若き日の情熱を失わずに旺盛な意欲を持ち続けることが大切だということか。この先生の飄々とした話しぶりの虜になりそうである。
ところで、21世紀になってからの日本人のノーベル賞受賞者の数がすごい。化学賞の野依良治氏、物理学賞の小柴昌俊氏、化学賞の田中耕一氏、そして今回受賞の物理学賞南部陽一郎氏、小林誠氏、益川敏英氏、さらには化学賞の下村脩氏であり、全部で7名にのぼる。この数はアメリカに次いで第2位なのだそうだ。すごいことだと思うし、誇らしくも思う。
日本の科学の世界では研究者に充分な研究費が提供されないということが昔から指摘されている。充分な研究環境を用意しないと頭脳流出が止まらないことになり、科学技術立国を図らなくてはならないわが国の将来を暗くするとも言われてきた。そんなわが国の研究現場から誇るべき研究者を輩出することができている理由や背景はどうなっているのかを知りたいものだと思う。もちろんノーベル賞が全てではない。言いたいことは、研究費などが潤沢でない中でも優れた業績を上げている多くの研究者を支えているものは何なのかを考えてみる必要があるのではないかということだ。
益川先生は「若者を育てる原動力はあこがれだ。」と話された。あこがれを持ち、それを育て、目標に向かって黙々と前進することが肝要だということか。あるいは、幾つになっても若き日の情熱を失わずに旺盛な意欲を持ち続けることが大切だということか。この先生の飄々とした話しぶりの虜になりそうである。
平成20年12月1日
今、国籍法の改正がなされようとしている。あまりマスコミで取り上げられていないようだが、実は重大な問題をはらんでいるのだ。読者の皆さんにも考えてもらいたいとの思いから、改正のポイントを紹介したい。
現行法では、日本人の女性が産んだ子どもは日本国籍を持てることとなっている。日本人の子どもであることが確実だからである。では、日本人の男性が外国人の女性との間で子をなした場合はどうなるのか。この場合その男性と母親たる外国人女性が結婚していれば生まれた子どもは日本国籍を取得することができることになっている。結婚している夫婦の間にできた子どもは生物学的にもその夫婦の遺伝子を承継していると推定できるからである。したがって父親である日本人の子どもであると推定されるということだ。
それでは、結婚をしていない日本人の男性と外国人女性との間で生まれた子どもはどうなるのか。子どもが出生する前に父親が認知している場合には日本国籍を取得できるが、出生後に認知した場合には両親がその後に結婚しない限り日本国籍を取得することができない。つまり単に父が認知しただけでは日本国籍を認めていないわけである。(父親たる日本人が認知そのものをしない場合には当然のことだが論外である。) 今回の改正はこの点を改め、日本人の父親が認知しただけの子に日本国籍を付与しようとするものなのである。日本人の子どもなのだから当然じゃないかという声が聞こえてきそうである。
しかし、ここでよく考えなければならない。偽装認知が横行することが考えられるからである。ときどき偽装結婚のニュースが流れることがある。日本で働きたい外国人女性が日本人男性の妻として入籍するものの実際には夫婦としての実態が無いというケースである。入籍制度を悪用した不法な行為である。しかし入籍の届け出手続きに際して市の職員が実態の伴う婚姻届であるのかどうかまで審査することはできないことから、偽装結婚を排除することは困難な状況となっている。それでも偽装結婚の場合には一人の日本人男性に一人の偽装妻しか入籍することができないだけに大量の偽装妻が発生することはあまり考えられない。それに引きかえ、偽装認知の場合には一人の日本人男性が何人もの外国人女性の子どもを認知できるだけに深刻な問題になる。もしも報酬を貰って何百人もの日本人男性がそれぞれ複数人の子どもを偽装認知するとしたら、実際には日本人の子どもではない外国人が大量に日本人になることになるのだ。考えただけでも恐ろしいことだ。そう遠くない時期に偽装認知ビジネスのブローカーも登場するに違いない。そのうちにあちこちに偽装日本人のコミュニティーが生まれたりしてね。コワイ話だなぁ。
誰とは言いませんが、脛にキズ持つ皆さんは要注意です。突然、知らない子どもが訪ねてきて「僕を認知してください!」などと迫られることになるかも知れません。ご用心めされ…。
現行法では、日本人の女性が産んだ子どもは日本国籍を持てることとなっている。日本人の子どもであることが確実だからである。では、日本人の男性が外国人の女性との間で子をなした場合はどうなるのか。この場合その男性と母親たる外国人女性が結婚していれば生まれた子どもは日本国籍を取得することができることになっている。結婚している夫婦の間にできた子どもは生物学的にもその夫婦の遺伝子を承継していると推定できるからである。したがって父親である日本人の子どもであると推定されるということだ。
それでは、結婚をしていない日本人の男性と外国人女性との間で生まれた子どもはどうなるのか。子どもが出生する前に父親が認知している場合には日本国籍を取得できるが、出生後に認知した場合には両親がその後に結婚しない限り日本国籍を取得することができない。つまり単に父が認知しただけでは日本国籍を認めていないわけである。(父親たる日本人が認知そのものをしない場合には当然のことだが論外である。) 今回の改正はこの点を改め、日本人の父親が認知しただけの子に日本国籍を付与しようとするものなのである。日本人の子どもなのだから当然じゃないかという声が聞こえてきそうである。
しかし、ここでよく考えなければならない。偽装認知が横行することが考えられるからである。ときどき偽装結婚のニュースが流れることがある。日本で働きたい外国人女性が日本人男性の妻として入籍するものの実際には夫婦としての実態が無いというケースである。入籍制度を悪用した不法な行為である。しかし入籍の届け出手続きに際して市の職員が実態の伴う婚姻届であるのかどうかまで審査することはできないことから、偽装結婚を排除することは困難な状況となっている。それでも偽装結婚の場合には一人の日本人男性に一人の偽装妻しか入籍することができないだけに大量の偽装妻が発生することはあまり考えられない。それに引きかえ、偽装認知の場合には一人の日本人男性が何人もの外国人女性の子どもを認知できるだけに深刻な問題になる。もしも報酬を貰って何百人もの日本人男性がそれぞれ複数人の子どもを偽装認知するとしたら、実際には日本人の子どもではない外国人が大量に日本人になることになるのだ。考えただけでも恐ろしいことだ。そう遠くない時期に偽装認知ビジネスのブローカーも登場するに違いない。そのうちにあちこちに偽装日本人のコミュニティーが生まれたりしてね。コワイ話だなぁ。
誰とは言いませんが、脛にキズ持つ皆さんは要注意です。突然、知らない子どもが訪ねてきて「僕を認知してください!」などと迫られることになるかも知れません。ご用心めされ…。
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