平成14年10月30日
 今日はなかなか楽しい機会を得た。旧知の金沢大学の教授のご配慮により、行政法の外部講師として200人程の学生に講義をさせてもらうことができた。もちろん僕には法律学としての講義をする能力など無いのだけれど、行政の現場にいる者の目から見たこれからの行政のあり方について持論を述べてきた。おそらく通常の講座にあっては、やれ統治とはとか、自治の本質とはとかという風な講義なのであろうから、僕の講演には違和感があって拒否されるのではないかと危惧しながら赴いた。会場では階段状の教室に久しぶりに入室し自分の学生時代の記憶を懐かしむことができた。講演の開始時には私語をする者や携帯電話を離さない者が多く、中には飲食する学生も散見され大いに驚いた。それでも話が進むうちに真剣な目で聴講してくれるものが多くなり僕自身も熱が入った。おかげであっという間に90分が経過し、実に充実した時間であった。最後には質問をする学生も現れてくれて良かったと思う。講演の中では若い世代がもっと自分たちの声を主張するようにとくどいほど訴えておいた。彼らが僕の話しをどのように受け止めてくれたのかは分からないが、少しでも政治や行政に関心をもってくれるきっかけになれば幸いである。
 一方では公務員志向の学生が多いという印象も強くした。これも時世の一つか?
平成14年10月23日
 知人から興味深い話しを聞いた。この方は富山市内の中心商店街で長くメン゛ズのブティックを営んでいらっしゃるのだが、いよいよ世の中がおかしくなってきたとして次のような話しをされたのだ。一つには、最近、店頭にディスプレイしてあるマネキンの帽子やカバンなどのグッズが万引きされることが頻発しているということ。二つには、店の前を通行する夫婦やアベックが大声で口論をしながら歩いている光景をしばしば見かけるということである。どちらも以前には無かったことだそうだ。万引きの話しももちろん嘆かわしいことだが、口論しながら歩いている夫婦の姿というのはまことに嘆かわしい。そもそも人前で大声で話すことさえ憚られるのにナァ、と思う。その夫婦もいつも口論しているわけでもあるまいが、大人としての分別を忘れた振る舞いだ。携帯電話の普及にあわせて世の中に大声で話す人が増えたことも原因しているのかもしれない。いずれにしても嘆かわしい。そう言えば誰かが言っているじゃないか、「仲良きことは美しき哉。」と。美しく生きましょう。
平成14年10月4日
 過激なジェダ−フリー論者に対して揶揄を込めて批判する内容のエッセイをHPに掲載した。どこにでも物事を過激に結晶させていく手合いはいるものだが、 そういう連中の面白さを軽妙に表現したつもりである。もとよりジェンダーフリーという考え方全てを否定したものではない。ところが世の中には文章読解能力の極端に低い者もいるもので、ある全国紙の富山支局の女性記者が子供のような解釈で僕のエッセイに関するコラムを書いていたと教えてくれる人があった。揶揄した対象の過激論者が激しい論調で批判してくるだろうとは予想していたが、(もっとも、連中にとっては僕など歯牙にもかけていないのだろうけれど。)物事の本質を見ぬく能力が求められるプロフェッショナルが、独自の解釈で批評してくれるとは意外であった。本当に僕の文章を読んでくれたのなら、お忙しいところをありがとう、とお礼を言わなければならない。が、しかし他方では、こんなことで大丈夫なのかと大いに心配させられた。文字のとおりにしか文章を読めない人が多いことを嘆いては来たが、ついに文字の意味さえ伝わらず活字としてしか伝わらない状況になってきたようだ。いよいよ国語が通じない時代に入ろうとしているのか?本当に大丈夫なのだろうか。