平成31年4月26日
 いよいよ平成の御代が終わる。平成の30年間が終わる。僕の36歳から66歳までの30年間の「時代」が終わる。死ぬときにどういう風に総括するのかは知らないけれど、僕の人生においておそらくピークの「時代」だったのだろうなあ?
 奔放な自然児のようだった少年期。放蕩の限りを尽くしていた青春期。そして25歳で仕事を始め、家庭を持ち、やがて長女を生し子育てをした。一人前の大人になろうと頑張っていた青年期?(壮年期前期?)。そんな時代を経て、36歳の時に時代は昭和の御代から平成の御代に移った。そのころの僕は充実していると誤解し自己満足していた。何らの不安も感じなかった。そしてその年の7月に次女が産まれた。(この次女の学年は平成30年間を年表のように生きた世代だ。)
 しかし好事魔多しの例えのごとく、その年の8月に妻が病魔に襲われ家族の暮らしは一変した。それでも新生児を含めた家族は結束してこの時期を乗り切り、わが家なりの平安を得た。子どもたちは伸び伸びと育ち、仕事も充実し、奉仕活動にも取り組んだ。やがて議員という立場となり僕は一生懸命にその活動に励んだ。妻は妻で、さまざまな社会活動に頑張った。子どもたちに我慢を強いながらも家族が結束して過ごしてきた。そして僕は今の立場となった。お陰様で充実した時間を持てたと思う。すべては『お陰様』ということだ。やがて子どもたちは成長しそれぞれに職を得た。しかし、そんな心の隙を見透かしたように病魔が再び妻を襲い、あの東日本大震災の年に妻は逝ってしまった。僕ら親子はその日から今日まで、時に感じる悲しみを悟られないようにしながらも、お互いに家族の絆を確かめながら仲良く過ごしてきた。心の中でいつも繋がりながら、それぞれの立場で役割を果たしていくことが僕らの生き方であり誇りなのだ。
 妻を亡くした2年後に大親友も失くした…。喪失感はいまだに癒えないでいる。時には今も彼に話しかけている。かっての親友の存在は今も大きな心の支えなのだ。
 この30年間を語ることは難しい。今日書いている思いとは違う気持ちで後日語ることもあるだろう。でもまあ、今日のところはこれくらいで…。
 令和の時代が来る。僕にとっては老壮期から老年期、終末期に入る時代ということだ。よし、やってやろうじゃないかという気分である。頑張ります。
 
 (元号が変わることに対応するためブログ「森のひとりごと」をリニューアルします。更新の作業をお願いしている最中です。僕もどんなスタイルになるのか分かりません。しばらく休ませていただくこととなりますがよろしくお願いします。)


平成31年4月16日
 初めて徳島県に行ってきた。全国47都道府県の中で徳島県だけ行ったことがなかったので心の隅のほうでかすかにひっかかっていたのだが解消することができた。せっかくの初訪問だったのだが、申し訳ないくらいに大爆笑の空港到着となってしまった。羽田からの便が今まさに着陸しようとするときに機内アナウンスが流れたのだが、その瞬間に吹き出してしまったのだった。そして徳島県民に失礼なくらいに声をあげて笑うことを止められなかった。アナウンスの声が「間もなく徳島アワオドリ空港に着陸します。」というものだったからである。いつも近くの空港の○○○○空港という呼称を恥ずかしくて聞いていられないと感じていたがアワオドリ空港という呼称には驚いてしまった。誰が仕掛けてこんなおかしなネーミング空港が増えているのか知らないけれど、空港の管理者は恥ずかしくないのだろうか。「徳島空港」でいいじゃないか。何がアワオドリ空港だ。おかしな時代になったものだ。もっとも空港の正面入り口前に阿波踊りを踊っている彫像が何体か置かれていたので徳島県にとってはアワオドリ空港が誇りなのかもしれない…?
 その日の宿での夕食に鶏の胸肉と思しき部位の蒸し焼きが出された。サーブしてくれた人が得意げに「アワオドリの焼き物です。」と言ったので、また吹き出してしまった。阿波お鶏という鶏らしい。なんともはや。
 レンタカーを返した後、空港まで送ってくれたお嬢さんに恐る恐るアワオドリ空港について感想を聞いてみると、小さな声で「恥ずかしいです。」と返ってきた。そりゃそうだよね。良く分かります。どこの県の人も郷土愛に溢れているということだ。ああ、恥ずかしい。
平成31年4月1日
 いよいよ4月1日。新しい年度となった。前にも何度か同じことを書いたが4月から新しい年度が始まるという仕組みは日本の国柄にあった良い制度だと思う。年があらたまった元旦にリセットした内心を桜の季節にもう一度リセットできるからである。清新な気持ちで迎えた新年を3か月後にもう一度さらに清新な気持ちになって再起動ができる。旺盛な意欲で仕事に取り組もうという気にさせてくれる。そのうえ今日は5月1日に予定される改元を前に新元号が発表された。「令和」とのこと。聞いたばかりで出典や含意が不明にも分からないけれど…、詳しく報道されることを待ちたい。良い時代になることを願うばかりである。